『自省録』と唯識――わかっていても心は揺れる
頭ではわかっていても、返事を待つ心は揺れてしまう。『自省録』の判断を吟味する実践を手がかりに、唯識の三性、末那識と我執、止観から、自分の考えを握りしめる心を見つめます。異なる思想を同一視せず、日常の出来事と静かに坐る時間へ学びを戻していきます。
相手から返事が来ない。それだけのことなのに、何度も画面を見てしまう。気にする必要はないと、頭ではわかっています。それでも、何か悪いことを言っただろうか、嫌われたのだろうかと、考えが続いてしまう。そんな経験はないでしょうか。
苦しみの仕組みを説明できることと、苦しんでいるその場で心の動きに気づくこと。この二つのあいだには、思いのほか距離があります。今日は『自省録』を手がかりに、その距離を仏教の修行という視点から考えてみたいと思います。
『自省録』を繰り返し読む
『自省録』を残したマルクス・アウレリウスは、古代ローマの皇帝であり、ストア派の思想に学んだ人です。この書物には、自分の判断を吟味し、目の前の務めに心を戻そうとする言葉が、繰り返し現れます。
この本に、どんな出来事にも動じなくなるための答えを求めたくなるかもしれません。ただ、自分自身に語りかける記録として読むと、少し違う姿が見えてきます。すでに知っている道理を、もう一度、今日の自分に向けて確かめる人の姿です。
同じ忠告が繰り返されるからといって、彼が生涯その道理を実践できなかったとは言えません。反復は、実践を支える営みでもあります。ここで考えたいのは、皇帝の到達点ではなく、私たちにもある、わかっていることとできることの隔たりです。
出来事と判断を分ける
『自省録』から受け取れる大切な視点の一つは、外で起きた出来事と、それに対する自分の判断を分けることです。思いどおりにならない出来事に心を奪われ続けるかわりに、自分はどう受け止め、どう応じるのかを問い直します。
先ほどの返事の例で言えば、今確かめられるのは、まだ返事が来ていないということです。相手が忙しいのか、返事を考えているのか、別の事情があるのかは、わかりません。ところが心は、そのわからないところを、拒絶されたという物語で埋めてしまいます。
その物語を事実として受け取ると、次に相手と会う前から身構えることになります。そっけない言葉を返してしまうかもしれません。判断を問い直すことには、このような応答を見直す力があります。読むこと、考えること、言葉を選び直すことは、実際の生活を支えます。
たとえば、返事を待つあいだにも、今日しなければならないことはあります。こちらから確認する必要があるなら、簡潔に尋ねることもできます。相手の心を推し量り続ける時間から、自分が今できる応答へと戻る。その小さな選び直しを、自分への言葉は支えてくれます。
ただし、出来事と判断を分ければ、あらゆる苦しみが片づくという話ではありません。つらい出来事には、対処すべき事情があります。ここでは、その事情に、まだ確かめていない解釈を重ねていないかという問いに、注意を向けています。
唯識の三性を手がかりに
この問いは、唯識(ゆいしき)を学ぶ入口にもなります。唯識には、依他起性(えたきしょう)、遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)、円成実性(えんじょうじっしょう)という、三性の教えがあります。
依他起性は、さまざまな条件に依存して生じるというあり方です。遍計所執性は、そこに実体的なものがあると構想し、執着してしまうあり方に関わります。円成実性は、依他起の上に、そのように構想された実体がないということに関わります。
これを、外から来る情報と、頭の中で貼る札だけの話に縮めてしまうと、教えの意味を取り落とします。私たちの経験そのものが、条件によって成り立っているからです。それでも、日常の解釈を見つめる例は、教えの方向を考える手がかりになります。
相手が黙ったとき、その沈黙をすぐに拒絶と受け取る。自分が付け加えた意味を、そこに初めからある確かなものとしてつかんでしまう。ここに、経験と、それをめぐる思い込みを取り違える問題が見えます。
もちろん、この例を理解しただけで、三性を十分に理解したとは言えません。また、ストア派と唯識が同じ教義を説いているわけでもありません。異なる思想を並べることで、今の自分が何を確かなものとして握っているかを、問い直しているのです。
正しさを守る心
さて、解釈を見直そうとするとき、私たちは、もっと正しく考えればよいと思います。それは大切です。しかし、そこで、もう一つ問いが残ります。正しく考えようとしている自分の側には、どんな執着があるのでしょうか。
たとえば、人から指摘を受けたとします。相手の言うことを冷静に検討しているつもりでも、いつの間にか、反論できる材料ばかり探していることがあります。判断を整えようとしていたはずが、自分の正しさを守ることに変わっているのです。
その変化は、露骨な怒りとして現れるとは限りません。筋の通った説明を重ねながら、間違いを認めるところだけは避けている。あるいは、落ち着いている自分を保つために、傷ついたという気持ちを認められなくなることもあります。
自分は感情に振り回されないと思っている人ほど、揺れたときに、その揺れを受け入れにくいこともあるでしょう。不安があるうえに、不安を抱く自分はだめだという判断が重なります。そのとき守りたいのは、平静でなければならないという自分の姿かもしれません。
末那識と我執
唯識は、こうした自己への執着を考えるうえで、末那識(まなしき)という働きを説きます。末那識は第七識とされ、阿頼耶識(あらやしき)を自己として執着することに関わります。ここでいう自己への執着が、我執(がしゅう)です。
末那識を、すべての考えを作る装置と呼んだり、心の奥にいる本当の自分と考えたりするのは適切ではありません。ここで受け取りたいのは、考えの内容だけを吟味しても、その考えを私のものとしてつかむ働きには、気づきにくいという点です。
自分を点検する働きにも、自分の習慣や執着が入り込む。その難しさは、右手で右手そのものをつかもうとする姿にたとえられるかもしれません。これは教義の定義ではなく、自分の盲点を考えるための比喩です。自己点検が無意味だという意味でもありません。
ストア派の実践を、この問いによって退ける必要はありません。自分の判断を吟味し、日々の行動を整える営みから、学べることは多くあります。その営みを続けながら、仏教の視点から、自分の判断を握りしめる心にも目を向けるのです。
考えが生じる動きを見る
ここで、修行の向きが少し変わります。生じた考えを、正しいか間違っているかと検討する。それに加えて、その考えがどう生じ、どう私の考えとしてつかまれるのかを見るようになります。
返事が来ないとき、拒絶されたという考えを、別の見方で捉え直すことはできます。忙しいのかもしれない。明日まで待ってみよう。その言い換えによって、心が落ち着くこともあるでしょう。
そのうえで、今の心を見てみます。画面を開く前に、すでに返事を期待していた。返事がないと知ると、胸のあたりが落ち着かなくなった。以前の経験が思い浮かび、拒絶されたという言葉が現れた。そして、その言葉に従って、また画面を開こうとした。
ただ、今見えている心の動きだけで、すべてがわかるとは限りません。疲れていたことに、後から気づく場合もあります。同じ沈黙でも、別の日には気にならないかもしれません。一度考えた理由だけで決めつけず、そのときに確かめられることを見ていきます。
このように確かめると、初めから一つの変わらない感情があったと思っていたところに、いくつもの動きが見えてきます。ただし、いつでも順序よく見えるわけではありません。気づいたときには、すでに怒っていた。それも、観察の出発点になります。
大切なのは、怒りや不安を力ずくで消すことではありません。それが生じたことと、それに従ってすぐに行動することのあいだで、自分の心を確かめることです。念が生じること自体を、修行の失敗と決めつける必要はありません。
止観と呼吸への注意
止観(しかん)は、心を落ち着けることと、起こっていることを明らかに見つめることを、ともに育てる修行です。止による安定に支えられ、観によって心の働きや、ものごとのあり方を見ていきます。ただ考える速さを落とせばよい、ということではありません。
実践への入口として、静かに坐り、呼吸を手がかりにしてみます。息を吸っていること、吐いていることを確かめます。考えがそれたと気づいたら、呼吸へ戻ります。うまく集中しようとして、かえって力んでいるなら、その力みも今の心の動きです。
しばらくすると、今日の会話が浮かぶかもしれません。言い返せなかった場面を、もう一度やり直しているかもしれません。その考えを追い続ける前に、今、会話の続きを頭の中で作っていると気づく。そこで、自分が何を守ろうとしているかにも、静かに目を向けます。
すぐに答えが出なくてもかまいません。観察したから必ず考えが減る、悲しみが消えると約束することもできません。落ち着かない日には、落ち着かない心を知るところから始まります。穏やかな自分を演じることより、今起きていることに誠実であることを大切にします。
日常の応答へ戻る
その誠実さは、坐っている時間だけのものではありません。人の話を聞きながら、自分の返答ばかり考えていたと気づく。指摘を受けたとき、内容より先に、自分の評価を気にしていたと気づく。そこで、一度相手の言葉を聞き直すことも、日常で確かめられる実践です。
その後で、必要なら自分の意見を伝えます。心を観察することと、現実の場面で応答することは、切り離す必要がありません。黙って耐えることだけが実践なのではありません。どんな言葉を返すかを選ぶときにも、その言葉を急がせている気持ちに気づく余地があります。
仏教の言葉を知っていると、執着だから手放すべきだと、自分に言いたくなることがあります。しかし、手放せない心を責めているだけなら、何を握っているのかは見えてきません。今、認められたいと思っている。傷つきたくないと思っている。まず、その動きを確かめます。
唯識を理解したという思いも、握りしめれば執着の対象になります。学んだ言葉が、自分を飾るために使われていないか。人の迷いを説明することには巧みでも、自分の迷いには目を閉じていないか。知識は、その問いを自分に向けるときにも役立ちます。
本を閉じて経験を確かめる
本を閉じた後に、自分の一日を振り返ってみるのもよいでしょう。どこで教えを思い出し、どこで忘れたのか。忘れた自分を裁くためではなく、次に同じような場面が来たとき、確かめる手がかりを持つためです。言葉で理解したことを、具体的な経験へ戻していきます。
『自省録』に戻ると、自分に繰り返し語りかける姿は、遠い人物の話だけには思えなくなります。私たちも、昨日わかったことを、今日の出来事の中で忘れてしまいます。だから、もう一度確かめる。反復することを、恥じる必要はありません。
一度気づいたからといって、翌日から揺れなくなるとは限りません。また同じ考えに巻き込まれることもあります。そのとき、前にもできなかったと結論づけるのか、それとも今の心をもう一度見るのか。その違いは、遠い理想を語るよりも、今日の実践に近い問いです。
地図を手に歩いてみる
道の地図を読めば、どこへ向かうのかがわかります。ただ、曲がり角で立ち止まり、足もとの様子を確かめる経験は、歩くことで得られます。仏教を学ぶことと修行することも、この地図と歩行の比喩で考えられます。地図を捨てるのではなく、地図を手に歩いてみるのです。
正しい考えを知ることを大切にしながら、その考えを使う自分の心にも注意を向ける。揺れたときには、揺れたことを認め、静かに坐って確かめる。今日、心に引っかかっている出来事を一つ思い浮かべるなら、そこに重ねている解釈と、それを握りしめる自分の動きを、どう見つめてみたいでしょうか。