百法明門論 怒りの中で何が働いているのか

怒りを自分のすべてと感じる前に、いま何が働いているのか。『百法明門論』の分類を手がかりに、日常の一つの反応を見分け、一切法無我の問いへ戻ります。

百法明門論 怒りの中で何が働いているのか

人の言葉に腹が立ったとき、私たちは「私は怒っている」と言います。日常では、ごく自然な言い方です。けれども、怒りが強くなると、いま起きている感情と自分との間に、ほとんど隙間がなくなります。相手の言葉を思い返し、言い返す言葉を探し、そのうち、ほかのことが目に入らなくなる。心の一つの動きが、自分のすべてを占めたように感じられるのです。

そのとき、「怒っている」という言葉の中を、もう少し丁寧に見てみることはできるでしょうか。何に注意が向き、何を不快と感じ、どんな考えを重ねているのか。今日は、その観察の手がかりになる『大乗百法明門論』、だいじょうひゃっぽうみょうもんろん、という論書をたどります。

百法と一切法無我

この論書は、伝統的に世親の著作、玄奘の翻訳として伝わっています。百法とは、経験を成り立たせるさまざまなものや働きを、百の項目に整理したものです。ここでいう「法」は、法律のことではありません。心の働きや物質など、私たちが経験するもののあり方を考えるための言葉です。

百と聞くと、覚えるだけでも大変だと思うかもしれません。けれども、この論書の目的は、たくさんの名前を知ることだけにはありません。冒頭に置かれているのは、「一切法無我」という言葉です。あらゆる法について、独立して変わらない自己は認められない。そのことを確かめるために、まず、何を「一切法」と呼ぶのかを見ていきます。

私たちは、心を一つのかたまりとして扱いがちです。「今日は心が乱れている」「自分は嫉妬深い」。こうした言葉は便利ですが、その中で実際に何が起きているかまでは、よく分かりません。百法の分類は、そのかたまりを見分けるための見取り図になります。

たとえば、身の回りの物質がどのような元素から成るかを知ると、見た目だけでは分からなかった違いに気づけます。それと同じように、心の働きにも名前と区別を与えてみる。ただし、心を物質と同じ仕方で分解できる、という意味ではありません。複雑な経験を、働きに即して理解するためのたとえです。

『唯識三十頌』が心の仕組みを考える手がかりになるなら、『百法明門論』は、そこで扱われる諸法を見渡す入口になります。「明門」という名も、理解へ入る門として受け取ることができます。百の項目は、人生で出会う出来事を百種類に限るためのものではありません。多様な経験を考察するための、基本的な枠組みなのです。

経験を見渡す五つの領域

百法は、五つの領域に分かれます。心法が八、心所法が五十一、色法が十一、心不相応行法が二十四、無為法が六です。心法から心不相応行法までの九十四法は、因縁によって生じ、変化する有為法に属します。それと区別して説かれるのが、六つの無為法です。

まず心法には、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識、末那識、阿頼耶識が挙げられます。末那識は、まなしき。阿頼耶識は、あらやしき、と読みます。見る、聞く、考えるといった認識を、一つの働きで済ませずに考えるのが、唯識の特徴です。ここでは、心法が認識の働きとして挙げられていることを押さえておきましょう。

次の心所法は、心とともに働く、個々の心理作用です。同じ言葉を聞いても、関心を向けること、不快に感じること、意味を捉えること、言い返そうとすることは、同じ働きではありません。私たちは一言で「腹が立った」と言いますが、その経験には、いくつもの働きが関わっています。

色法の「色」は、しき、と読みます。色彩だけを指す言葉ではなく、物質に関わる領域です。眼や耳などの五根、それに対応する色や声などの五境、そして法処所摂色が挙げられます。百法は、百種類の感情を並べた表ではありません。認識する働きと、認識に関わる物質の領域も含めた分類なのです。

心不相応行法は、心そのものでも、心所でも、物質でもない仕方で説かれる項目です。時間や数、名称なども、ここで考えられます。最後の無為法には、虚空無為や真如無為などが挙げられます。真如は、しんにょ、と読みます。この分類の最後に、変化する心の状態だけでは捉えられない、もののあり方への問いが置かれているのです。

ただ、五つの領域が並んでいるからといって、その順に心が動いたり、その順に修行が進んだりする、と決めることはできません。分類は、経験を確かめる手がかりです。今日の日常の観察に役立つのは、とくに五十一の心所でしょう。

心所を日常から見分ける

心所は、さらに六つの群に分かれます。遍行、別境、善、根本煩悩、随煩悩、不定です。ここで大切なのは、心の働きがすべて、最初から善か悪かのどちらかに決まっているわけではないことです。認識にいつも伴う働きもあれば、対象や条件によって性質が変わる働きもあります。

遍行、へんぎょう、には、作意、触、受、想、思があります。作意は心を対象へ向けること。触は、感覚の器官と対象と識が関わるところに成立する接触です。受は、快や不快などを感じること。想は対象の特徴を捉えること。思は、心を動かし、行為へ向ける働きです。

いま、この話を聞いているときにも、声に注意を向け、聞いた言葉を識別し、心地よさや退屈を感じ、聞き続けようとすることがあるでしょう。これは、五つの働きを身近に考える例です。必ずこの順番で起こる五段階、という説明ではありません。一つの経験にも、区別して見られる働きがある、ということです。

別境、べっきょう、には、欲、勝解、念、定、慧があります。欲は、ある対象を求める働きです。欲と聞くと、すぐ煩悩を思い浮かべるかもしれませんが、教えを学びたい、修行に取り組みたい、という希求にも関わります。求める心が、何へ向かっているかを見なければなりません。

勝解は、対象について「こうである」と決め、その理解を保つ働きです。ただし、その理解が正しいとは限りません。念は、以前に経験した対象を心に保ち、忘れない働きです。定は一つの対象へ心を集中させること。慧は、その対象を見極めることです。呼吸を観察していて、心が別のことに向いたと気づいたとき、再び呼吸を対象にする。その実践も、心の働きを見分ける手がかりになります。

善の働きと反省

善の心所は十一あり、信、精進、無貪、無瞋、不害などが挙げられます。その中に、慚と愧があります。慚は、ざん。愧は、き、と読みます。どちらも、悪を恥じる働きに関わりますが、単に、人に知られて恥ずかしいという気持ちと同じではありません。慚は、自分と教えに照らして善を尊ぶ働き。愧は、世間で悪が戒められることに照らして、悪を退ける働きです。

たとえば、相手を傷つける言葉を口にしたあと、自分のふるまいを省みることがあります。誰にも責められていなくても、そのままにはしておけないと感じる。また、他者との関わりや、敬うべき教えに照らして、自分の言動を見直すこともあります。慚と愧を考えるときには、そうした、悪から離れようとする働きに目を向けてみてください。

善の働きについても、ふだんの経験から確かめられます。相手の話を聞くうちに、反発が少し和らぐことがあります。自分の取り分ばかりを気にしていたところで、分かち合う気持ちが生じることもあるでしょう。煩悩だけを探すのではなく、むさぼりや怒りを離れる方向の働きにも気づく。そのためにも、心の全体を、よい人か悪い人かという判断だけで覆わないことが大切です。

反省するときに、自分を丸ごと責める必要はありません。何をしたのか、どこで相手を傷つけたのかを確かめる。心所の分類は、自分に悪い名前を付けるためではなく、いまの働きを見直すために使います。

執着と怒りの違いを確かめる

根本煩悩には、貪、瞋、痴、慢、疑、悪見が挙げられます。貪は、むさぼり、つかもうとする働き。瞋は、しん、と読み、反発して排斥する働きです。痴は、もののあり方を明らかに理解できないこと。慢は、自分を高く見積もり、他者と比べる働きに関わります。疑や誤った見方への固執も、教えに向き合う妨げとして扱われます。

これらを知ると、怒りの表面だけでなく、そのとき自分が何を握りしめているかも問い直せます。「自分はこんな扱いを受けるはずがない」。その思いが強いほど、相手の言葉への反発が長く続くこともあるでしょう。怒りの理由を相手だけに求めず、自分の側で働いている執着にも目を向けるのです。

随煩悩、ずいぼんのう、には、より具体的な二十の働きがあります。たとえば、忿と恨です。忿は、ふん、と読み、怒りが激しく現れる働き。恨は、その怒りを持ち続ける働きです。その場で声を荒らげることと、翌日になっても相手の言葉を繰り返し思い返すこと。その違いを、同じ「怒り」の一言で覆わずに見てみます。

たとえば、一日が終わり、相手はもう目の前にいないのに、その言葉だけが頭の中で続いているとします。いま新しく言われたことに反応しているのか、それとも、すでに過ぎた言葉を自分で繰り返しているのか。そこを見分けるだけでも、観察する対象が具体的になります。「怒りがある」と認めたうえで、その怒りを持ち続けている働きにも目を向けるのです。

隠す心、嫉む心、惜しむ心

覆は、ふく、と読み、自分の過ちを隠し、認めようとしない働きです。言いすぎたと分かっていても、相手のせいにして話を終えようとする。そうしたとき、怒りだけが起きているとは限りません。自分の過ちに向き合いたくない心が、重なっていることもあります。

嫉は、しつ、と読み、他人のよい境遇を喜べずに苦しくなる働きです。慳は、けん、と読み、自分が持つものを惜しみ、分かち合おうとしない働きです。他人が得たものを見て苦しくなるのか。自分のものを手放すことに抵抗を感じるのか。似て見える不満の中にも、違う向きの働きがあります。

こうした区別は、他人を分類して裁くために使うと、かえって自分の心が見えにくくなります。「あの人は慢が強い」と考える前に、その判断をしている自分の心を確かめる。人と比べていないか。相手を退けたいのか。自分の反応を観察するところに、実践の入口があります。

条件によって変わる働き

最後の不定には、悪作、睡眠、尋、伺があります。悪作は、あくさ、と読み、悔やむ働きに関わります。人を傷つけたことを省みる場合と、人に親切にして損をしたと悔やむ場合では、同じ悔やむ心でも向きが違います。尋は大まかな思考、伺は細かな検討です。不定とは、いつでも中立という意味ではなく、対象や条件によって、善や不善などの性質が一定しないことです。

今日の反応を観察する

百法の名を覚えることと、いまの心を知ることは、同じではありません。地図を手にしても、それだけで道を歩いたことにはならないからです。怒りが生じたとき、すぐに消そうとする前に、注意はどこに向いているのか、何を不快と感じているのか、何を繰り返し考えているのかを確かめてみます。

黙って抑え込むか、相手にぶつけるか。その二つだけで考えていたところに、見分けるという余地が生まれます。見えたからといって、感情がたちまち静まるとは限りません。それでも、言葉を口にする前に、いま起きている働きを確かめることはできます。

ここで、心を観察する自分こそが、変わらない本当の自分なのだ、と考えないことも大切です。観察しているときにも、注意を向け、特徴を捉え、判断する働きがあります。その立場だけを、ほかの働きから切り離して、動かない自己として握りしめるなら、無我への問いから離れてしまいます。

いま、少しだけ立ち止まってみてください。もっと知りたいと思っているでしょうか。聞いたことを吟味しているでしょうか。それとも、別の用事が気になっているでしょうか。用語に無理に当てはめず、まず実際の心を確かめます。

「私はこういう人間だ」と結論づける前に、いま何が働いているのかを見る。一つ一つの働きを見たとき、そこに、独立して変わらない私を見いだせるでしょうか。『百法明門論』の分類は、その問いへ戻るためのものです。百の名前を知ることから、今日の一つの反応を見直すことへ。一切法無我を学ぶ入口として、今日、あなたの心には、どんな働きが起きているでしょうか。