「私」はなぜ傷つくのか
考えへの指摘が自分への傷に変わるとき、何を守ろうとしているのでしょうか。自己言及を入口に、末那識、空、五蘊と無我をたどり、日常の反発と執着を見つめます。
誰かに自分の考えを否定されたとき、なぜ、考えだけでなく、自分まで傷つけられたように感じるのでしょうか。胸が熱くなり、言い返す言葉を探し、あとになっても、その場面を思い返す。そのとき守ろうとしていた「私」は、いったい何なのでしょう。
ダグラス・ホフスタッターの『ゲーデル、エッシャー、バッハ』は、数学と版画と音楽を行き来しながら、こうした自己への問いに近づく本です。仏教の教えを説いた本ではありません。それでも、私たちが当然のように用いている「私」という言葉を、あらためて見つめる入口になります。
自分の身体は見えます。考えている内容も、ある程度は言葉にできます。けれども、それらを持ち、動かしているはずの主人を探すと、何を指せばよいのか、急には分からなくなります。身体でしょうか。記憶でしょうか。それとも、いま考えているこの心でしょうか。
自己言及と数学の問い
この問いを急いで解く前に、本に登場する自己言及という働きを見てみましょう。自己言及とは、ある表現や仕組みが、自分自身に言及することです。たとえば、「この文は短い」という文は、その文自身を話題にしています。説明する側と、説明される側が重なってくるのです。
数学では、ゲーデルの不完全性定理が、この問題に深く関わります。ごく大づかみに言えば、十分な算術を表現でき、公理を機械的に列挙し、証明を機械的に確かめられる形式体系には、無矛盾であるなど一定の条件のもとで、その体系の内部では証明も反証もできない命題があります。
その仕掛けを直感的に考える手掛かりになるのが、この体系では自分を証明できない、と述べる命題です。ただし、ふつうの言葉でそう言うだけでは、定理の証明にはなりません。数学では、命題や証明についての記述を、算術のなかで厳密に扱う工夫が必要になります。
ここから、心は自分を知ることができない、あるいは数学が無我を証明した、と結論することはできません。数学の定理には適用される条件があります。人の心や仏教の修行に、そのまま移して使えるわけではないのです。それでも、自分自身を記述するとはどういうことか、という問いは残ります。
繰り返し確かめる自己像
エッシャーの版画には、階段を上り続けているようで、いつの間にか同じ場所へ戻ってしまう表現があります。一段ずつ見れば自然なのに、全体を眺めると、不思議なつながりが見えてくる。ホフスタッターのいう奇妙なループも、階層をたどるうちに出発点へ戻り、上と下の区別が揺らぐ構造を考える手掛かりです。
自分を振り返る心にも、少し似たところがあります。私はこういう人間だと考え、その説明に合う記憶を思い出す。集めた記憶を根拠に、やはり私はこういう人間だと納得する。これは数学的な証明ではなく、自己像が繰り返し確かめられる様子を考えるための例です。
たとえば、一度の失敗を思い出して、私は何をしても駄目だと決めてしまうことがあります。けれども、その日の疲れや、慣れていなかった事情や、うまくできた別の場面は、その説明から抜け落ちています。一つの物語が自分の全部になってしまうとき、物語を確かめるたびに、その輪の外が見えにくくなるのです。
ホフスタッターは、脳の物理的な活動と、そこに成り立つ記号の働きを通して、自己を指し示す構造を考えます。独立した魂がどこかから命令する、と想定せずに、「私」という感覚を捉えようとするのです。これは意識についての一つの見方であり、自己言及さえあれば意識が生まれると証明されたわけではありません。
では、仏教は何を問うのでしょうか。自分を指す仕組みがあることから、さらに、その仕組みをどうして「変わらない私」として握りしめてしまうのか、という問いへ進みます。考えが起こることと、その考えを自分そのものとして守り続けること。その違いが、日々の苦しみに関わってきます。
末那識と日常の反発
唯識には、末那識という教えがあります。自己への執着を考えるうえで重要な心の働きです。『成唯識論』では、まだ執着が転じていない段階の末那識は、阿頼耶識をよりどころに、その見分、つまり認識する側面を我と捉えて執着すると説かれます。その絶え間ない思量は恒審思量と呼ばれます。
これを、脳のなかで自分の情報を確認する装置の名前だと思うと、教えの意味を狭めてしまいます。末那識と奇妙なループは、同じ機構を別の言葉で説明しているのではありません。自己に結び付けて捉える働きを見直す、という点で比較しているのです。
誰かの言葉に反発が起きた場面に戻ってみます。まず、その言葉が耳に入る。嫌だという感じが起こる。そして、私が軽く扱われた、私の価値が下がった、という受け取り方が重なります。生活のなかでは一つに感じられても、丁寧に見ると、すべてが同じことではありません。
自分の意見を訂正するだけなら済む場面で、人格のすべてを守るように身構えることがあります。そこには、考えを「私のもの」として握る力が働いていないでしょうか。無我という言葉に納得していても、この反発は起こります。説明が分かることと、執着が薄れることには、隔たりがあるのです。
反発に気づくことは、相手の言い分をすべて正しいと認めることではありません。必要な訂正や返答はできるでしょう。ただ、返答の前に、自分が何に傷ついているのかを見ることはできます。誤りを指摘された痛みなのか、認めてほしかった願いなのか。それを確かめることが、すぐに言い返す以外の応じ方につながるかもしれません。
意味の理解と四分説
意味を理解するとは何か、という別の問いもあります。『ゲーデル、エッシャー、バッハ』では、アキレスと亀の対話も、考えを進める役割を担います。対話を読む私たちは、言葉を並べることと、その意味が分かることの間を行き来します。
ここで思い出されるのが、ジョン・サールの中国語の部屋という思考実験です。中国語を知らない人が、部屋のなかで規則集に従い、渡された記号に対応する記号を返す。外からは会話ができているように見えても、なかの人は中国語を理解していない、という設定です。
これは、規則に従う処理と、意味の理解の関係を問うための思考実験です。この設定だけで意識の問題に決着がつくわけではありません。また、言葉の意味が分からないことと、自分に経験が起きていることを知ることも、分けて考える必要があります。
『成唯識論』に説かれる唯識の四分説は、一つの認識を、相分、見分、自証分、証自証分という側面から捉えます。大まかには、認識に現れる対象、対象を認識する働き、自分の認識を知る働き、そしてその自知を確かめる働きです。時間を追って四段階が動く、という説明ではありません。
この教えを聞くと、心の奥に、見る人を見ているもう一人がいるように想像したくなります。しかし、観察者を次々に置くための教えとして受け取るべきではありません。中国語の部屋にいる人には自証分がない、と判定することもできません。異なる問いを、似た言葉だけで重ねない慎重さが必要です。
条件のなかで見る経験
その慎重さは、意識の起源を問うときにも役立ちます。意識はどこから生まれるのかと考えるとき、私たちは、意識という独立したものがまずあり、その製造場所を探せばよいと思っていないでしょうか。何を探しているのか、その前提にも目を向けられます。
龍樹の『中論』は、ものがそれ自体の力だけで成り立つという見方を問い直します。自分自身から、他から、その両方から、あるいは原因なしに生じるという捉え方の検討も、その文脈にあります。原因や条件など必要ない、という話ではありません。
何かが他の条件に依存せず、それだけで成立する性質を、自性といいます。条件によって成り立つものに、そのような自性を認められるのか。空という教えは、何も存在せず、何をしても変わらないと宣言するものではありません。むしろ、関わりのなかで変化しているものを、固定してしまわない見方です。
昨日は責めるように聞こえた言葉が、事情を知ったあとには違って聞こえることがあります。相手の声は同じでも、こちらの疲れや記憶、相手との関係によって、受け取り方は変わります。経験を条件のなかで見るとは、まず、こうした変わり方を見落とさないことから始められます。
音楽の比喩と五蘊
バッハのフーガを、一つの比喩として聴いてみましょう。ある声部に現れた主題を、別の声部が受け取り、異なる動きが重なっていく。どれか一つの音だけを取り出して、これが音楽のすべてだと言うことはできません。それでも、関わり合う音楽は、確かに聞こえてきます。
この比喩が縁起を証明するわけではありません。ただ、全体を一つの中心だけに帰したくなる癖を緩めてくれます。自分についても同じように問い直せます。身体だけが私でしょうか。快い、不快だと感じる働きでしょうか。記憶や判断だけで、私のすべてを言い尽くせるでしょうか。
仏教は、経験を五蘊というまとまりから見ていきます。色、受、想、行、識。身体に関わるもの、感受、物事を捉える働き、意志などの働き、そして対象を知る働きです。そのどれも変化し、条件に左右されます。このなかの何を、独立して変わらず、すべてを支配する私と呼べるのでしょう。
無我は、痛みなど感じていない、約束など守らなくてよい、という意味ではありません。痛みはいたわる必要があり、自分の行為は他者に影響します。ただ、そうした経験の奥に、不変の主人を付け足さなくても、生活の働きは考えられます。
静けさのあとにも続く修行
だからこそ、修行は自分を消そうと力むことにはなりません。坐禅で考えが浮かんできたとき、それを失敗として追い払う前に、どんな思いが起き、何を守ろうとしているのかに気づく余地があります。気づいたという自負さえ、また握りしめる対象になるかもしれません。
しばらく静かに座れても、それで自己への執着がなくなったとは限りません。席を立ち、思いどおりにいかない出来事に出会うと、また自分を守る言葉が出てくる。その繰り返しを、ただ進歩がないと決めつけずに見ていきます。心が静かな時間だけでなく、揺れたときにも、学べることがあるのです。
自分を完全に説明できれば安心できる。そう思って、説明を重ねることもあります。鏡に映る顔を確かめ、さらに別の鏡を持ち出して、本当の自分を探し続けるようなものです。この鏡は、ここで考えるための比喩です。
ときには、鏡を置いてみることもできます。答えを探す手を少し緩め、いま胸が硬くなっていること、相手の言葉を繰り返していることに目を向ける。ただし、その背後に、永遠に変わらない「見ている私」が見つかると約束するわけではありません。観察する働きもまた、条件を離れた実体として据えないのです。
関係のなかに生きるもの
後年の『わたしは不思議の環』では、ホフスタッターは亡き妻との関係を通して、人の存在が他者のなかにどう生き続けるかを考えています。それを意識が移動した証拠と受け取る必要はありません。大切な人の言葉や振る舞いが、いまの自分の選び方を形づくっている。その経験は、身近にもあるでしょう。
自分の口から出た一言に、昔聞いた誰かの言葉が重なることもあります。その人と同じ考えになったつもりはなくても、気づかぬうちに、受け取ったものが生きている。私を形づくる関係は、いま目の前にいる人だけに限られないのです。
孤立した私を探していたはずが、言葉を教えてくれた人、支えてくれた人、傷つけ合った人との関係が見えてきます。無我を理解したと名乗る前に、その関係のなかで、いま何を握っているのかを見てみる。次に誰かの言葉で心が揺れたとき、守ろうとするその私を、どのように見つめ直せるでしょうか。