坐禅のあと、なぜ怒るのか
坐禅後の怒りを手がかりに、『八識規矩頌』が説く感覚と解釈、自己への執着、習慣の働きを見つめます。
坐禅を終えた直後には、心が静かになったと感じることがあります。ところが、帰り道で誰かのひと言に腹を立てる。先ほどまでの落ち着きは、どこへ行ってしまったのでしょうか。静かに坐れた時間も、その後の怒りも、ともに見つめるところから、唯識の学びは日々の修行につながっていきます。
『八識規矩頌』を手がかりに
玄奘は、多くの経典や論書を翻訳し、仏教の教えを伝えました。その玄奘の作として伝えられる、短い偈頌があります。『八識規矩頌』です。ただし、作者や成立については異論もあり、玄奘の著作と確定して読むことには慎重さが必要です。ここでは作者をめぐる判断を急がず、この書が心のどこに目を向けさせるのかをたどってみましょう。
『大乗百法明門論』が心に関わる諸要素を整理し、『唯識三十頌』がその基本原理を示すとすれば、『八識規矩頌』は、実際に起きている心の働きを見分ける手引きとして読むことができます。前五識、第六意識、第七末那識、第八阿頼耶識。この四つのまとまりについて、ふだんの働きと、智慧への転換とが説かれています。
前五識と感覚の働き
まず、前五識から見ていきます。眼識、耳識、鼻識、舌識、身識。見る、聞く、においを感じる、味わう、身体で触れるという認識の働きです。ここで手がかりになるのが、性境現量という言葉です。色や音などが、概念による判断に先立って、直接に現れるあり方に目を向けます。
たとえば、庭に赤いものが見えます。その赤い色が見えることと、薔薇だと認めることとは、区別できます。さらに、好きな花だ、以前もらった花に似ている、と考えることも重なってきます。ふだんは、こうした働きが一続きになり、どこで何が加わったのかを意識しません。
耳に届いた音と、その音を言葉として受け取ること。さらに、その言葉を侮辱だと受け取ること。この違いを丁寧に見るのです。感覚がいつも正しく、苦しみのすべてが後の解釈から生まれる、と言い切る必要はありません。ただ、実際に何が現れたのかと、そこへどんな意味を重ねたのかを分けると、自分の反応を確かめる余地が生まれます。
偈頌は、鼻、舌、身と、眼、耳とで、対象への関わり方が異なることにも触れています。におい、味、接触を捉える働きと、離れたものの色や音を捉える働きです。また、感覚を支える根と、そこに依って起こる識も区別します。眼という支えと、見るという認識は、同じ言葉で済ませられないのです。
前五識が転じた智慧は、成所作智と呼ばれます。感覚を閉ざして何も受け取らなくなる、ということではありません。衆生の苦しみに触れ、必要な行いを実現する智慧です。人の困った様子を見ながら、自分に都合が悪いからと目をそらす。そのような偏りを離れ、助ける働きへと向かうことが、その方向を考える手がかりになります。
見えた色や聞こえた音を確かめようとしても、すぐに評価が浮かぶかもしれません。評価を無理に押し戻すより、いま好き嫌いが加わった、と気づいてみます。たとえば、同じ花でも、贈り主を思い出した途端に感じ方が変わります。目に映る色は同じでも、心には別の事情が重なっている。その小さな違いが、感覚と解釈を見分ける練習になります。
第六意識と判断
次に、第六意識です。私たちが考え、比べ、名づけ、判断するとき、その働きが大きく関わっています。善にも、不善にも、善悪いずれとも定めない無記にも通じます。修行しようと志すことも、言い訳を重ねることも、この意識の働きと無関係ではありません。
『八識規矩頌』では、第六意識の広がりを、三性と三量、そして三つの対象のあり方から示します。三性は、ここでは善、不善、無記のことです。三量は、直接に捉える現量、手がかりから推し量る比量、そして誤った認識である非量です。正しく知る可能性と、思い違いに陥る可能性とが、同じ意識のうちにあります。
対象のあり方は、性境、帯質境、独影境の三つに分けられます。名づけや推量で作られるのではない対象の現れ、拠り所となるものに心の捉え方が重なった現れ、心のうちに浮かぶ像。いずれも、識に現れる対象のあり方を分けたものです。まずは、そのような違いへの手がかりとして受け止めてください。いま目の前にあるものを見ているのか。それとも、過去の記憶から作った相手の姿を見ているのか。この問いは、人と向き合う場面でも切実です。
身体を動かし、言葉を発することにも、第六意識は深く関わります。怒鳴る直前、こちらを軽く見たのだという判断が浮かぶ。そのまま声にする前に、一呼吸置けることがあります。相手が何を言ったのか、私は何を決めつけたのか。その確認が、次の言葉を変える場合があります。
業についても、この書は引業と満業に言及します。次の生の大きな方向に関わる業と、その個別のあり方に関わる業です。これは唯識の教理のなかで説かれる事柄であり、目の前の不運を、過去の行いのせいだと決めつけるための説明ではありません。ここで日常へ持ち帰りたいのは、意図を伴う行いが傾向を残し、その後の経験を条件づけるという視点です。
一度の嘘を隠すために、次の嘘が出やすくなる。反対に、強い言葉をのみ込み、確かめてから話すことを重ねれば、その選択にも道筋ができます。行いは、その場で消えて終わるだけではありません。第六意識が転じた妙観察智は、偏見や性急な決めつけに覆われず、対象を明らかに観察する智慧です。考える力そのものを嫌うのではなく、その働きが何に導かれているかを見つめます。
相手の返事が遅いときにも、意識はさまざまに推し量ります。忙しいのかもしれないと思うこともあれば、私を避けているのだと考えることもあります。どちらも、返事がまだ届いていないという事実に加えた判断です。判断が浮かぶこと自体をなくそうとする必要はありません。ただ、推し量ったことを確かな事実として扱い、そこから相手を責めていないかを確かめる。そのひと手間が、言葉の行き違いを見直す足がかりになります。
第七末那識と私への執着
けれども、正しく考えようとするだけでは、届きにくいところがあります。指摘された内容はもっともだと分かっている。それでも、私を否定されたという思いが離れない。ここで目を向けるのが、第七末那識です。
末那識は、阿頼耶識を拠り所とし、それを自己として捉える働きと説かれます。経験を絶えず、私、私のものへと結びつけるのです。鏡に映った像を見て、これこそ自分のすべてだと思い込むように、拠り所となる働きに、私という捉え方を重ねています。
有覆という言葉は、この働きが、もののあり方を明らかに見ることを妨げる性質を示します。しかも、それは大きな欲望や激しい怒りとしてだけ現れるのではありません。人の話を聞きながら、私はどう評価されるだろうと気にする。善い行いをしながら、それにふさわしい扱いを求める。そうした場面にも、我執を省みる手がかりがあります。
坐禅をしていても、私はよく坐れた、以前より進歩した、という思いが入り込みます。その思いを見つけたからといって、自分を責める必要はありません。ただ、静けさを求める営みにも、私を確かめたい気持ちが入りうる。そのことを観察の外に置かないのです。
少し立ち止まり、私はいま観察している、という感覚に注意を向けてみてください。何かを捉えている私が、当然の前提になっているかもしれません。もっとも、これだけで末那識の働きを直接に証明したことにはなりません。自己への執着が、ふだんいかに見過ごされやすいかを省みるための、小さな入口です。
末那識が転じた智慧は、平等性智です。自他を隔てる執着が転じ、衆生の平等性が明らかになる智慧とされます。相手と自分の事情の違いまで、すべてなくなるという意味ではありません。自分の痛みだけを重く見て、相手の痛みを軽く扱う。その偏りから離れる方向を、ここに見いだせます。
私を守ろうとする気持ちは、ときに、相手の言葉を最後まで聞くことを難しくします。まだ話が終わらないうちに、反論の言葉を探していることがあります。そのとき、自分には言い分があるのと同じように、相手にも伝えたい事情があると気づく。すぐに同意できなくても、まず聞こうとする余地は生まれます。平等性智という深い智慧を、こうした一度の行いで得たとは言えません。それでも、その教えに照らして、いまの偏りを省みることはできます。
第八阿頼耶識と薫習
そして、第八阿頼耶識です。ここでは種子と薫習が大切な言葉になります。種子とは、後の経験や働きが生じる可能性を担うものです。薫習とは、経験や行いによって、その傾向が薫りつけられることです。種子は、心の中に小さな物がしまわれているという意味ではありません。
阿頼耶識については、三つの側面から考えてみましょう。種子を保つ側面、他の識の働きによって薫習を受ける側面、そして末那識によって自己として執着される側面です。ここでも、経験の連続を支える働きと、それを私として握りしめることとを、混同しないようにしたいところです。
『八識規矩頌』は、阿頼耶識を深い海に、前七識を波に、対象を風にたとえます。友人の何げない言葉をきっかけに、怒りが湧く。気がかりな知らせで、不安が広がる。波は、風を受けて動きます。同じように、心の動きにも条件があります。
いま怒りがあるからといって、怒りだけが私のすべてだと決める必要はありません。しかし、波の下に、永遠に変わらない本当の私が隠れている、と考えるのも違います。阿頼耶識も因縁のもとで相続する働きです。海の比喩は、固定した魂を見つけるためではなく、感情の一波に自分のすべてを重ねないために用います。
この識は、薫習を受け、種子を保ち、身体や私たちの生きる世界に関わるものとして説かれます。また、生死を通じた識の連続も、唯識の教理のなかで説明されます。そこに不変の主人を立てると、阿頼耶識を自己と取り違える末那識の説明とも、食い違ってしまいます。
第八識が転じた智慧は、大円鏡智です。汚れのない大きな鏡が、現れたものを映す。その姿にたとえられます。好きなものだけを映そうとせず、去ったものをつかまえておこうともしない。その比喩は、執着によってゆがめずに明らかにする智慧を示しています。
静けさの後の行いを確かめる
四つの智慧には、修道における深まりがあります。第六意識や末那識の転換が始まる段階と、第八識まで根本から清浄になることとを、ひとまとめにはできません。一度心が静まったという経験を、そのまま我執や習慣が尽きた証しにはしない。この慎みは、日々の修行を続けるうえでも大切です。
怒りが起きたとき、まず、実際に見えたこと、聞こえたことは何かを確かめます。次に、そこへ自分がどのような解釈を加えたかを見ます。そして、その解釈の中で、どのような私を守ろうとしているのかを問い直します。同じ反応を繰り返しているなら、積み重なった傾向にも目を向けます。
振り返っても、その場ではよく分からない日もあるでしょう。落ち着いてから思い返すと、言葉の内容より、人前で指摘されたことがつらかったと気づくかもしれません。その気づきを、次に同じ場面に出会ったときへつなげます。毎回うまくできるかどうかだけに気を取られず、繰り返す反応の中身を少しずつ確かめていくのです。
これは第七識だ、と名前をつけただけで、執着がほどけるわけではありません。相手の言葉を聞き直せたか。発しようとした言葉を改められたか。心が静かだった時間だけでなく、その後の行いを確かめるのです。『八識規矩頌』の短い教えは、坐る場を離れた後も、自分の心を丁寧に見続けるための手がかりになります。
坐る場を離れて心が揺れたとき、そこにはどのような思い込みや、私へのこだわりが働いているのでしょうか。