釈尊に学ぶ 自分を疑う心の見つめ方
自分を疑う思いが浮かんだとき、すぐに信じ込まず、その働きを確かめる。釈尊とマーラの物語を通して、休息や準備も大切にしながら、今日できる善い実践へ戻る道を考えます。
朝、少し早く起きて、静かに坐ってみようと思う。あるいは、しばらく閉じたままのお経の本を、もう一度開いてみようと思う。ところが、いざ始めようとすると、こんな思いが浮かぶことがあります。
前にも続かなかった。今さら始めても、何も変わらないのではないか。
まだ何もしていないのに、その思いが浮かんだだけで、手を引っ込めてしまう。こうした経験は、修行の場に限らず、日々の暮らしの中にもあるでしょう。気がかりなのは、ためらいが生じたことよりも、そのためらいを、自分についての確かな答えとして受け取ってしまうことです。
以前、続かなかったことは事実かもしれません。けれども、それだけで今日もできないと決まったわけではありません。過去の出来事を思い出すことと、これからの行いを決めつけること。その間には、少し立ち止まって確かめられる余地があります。
釈尊とマーラの物語を読む
仏教には、釈尊の修行を妨げようとする、魔王マーラの物語が伝えられています。魔王と聞くと、私たちの暮らしからは遠い、恐ろしい存在を思い浮かべるかもしれません。しかし、その物語をたどると、恐れや欲望、疑いに心を奪われるという、身近な問題が見えてきます。
マーラを、ただ心の中の現象だけで説明し尽くすことはできません。そのうえで、説話に描かれた妨げを手がかりに、自分の心の動きを省みることはできます。今日はそのような受け止め方で、釈尊とマーラの物語を読み進めてみましょう。
菩提樹の下で悟りを目指す釈尊に、マーラが迫る。仏伝に描かれる、降魔、すなわち魔を退ける場面です。伝承によって描写は異なりますが、そこには、恐ろしい軍勢による威嚇や誘惑、そして悟りの座に就く資格を問う姿が語られます。
恐ろしいものが来れば、逃げたくなる。望ましいものを差し出されれば、手を伸ばしたくなる。お前にはその資格がないと言われれば、自分を疑いたくなる。物語の姿は大きくても、心が動かされる方向には、私たちにも覚えのあるところがあります。
大切なのは、それらを押し返す力の強さだけではありません。何によって自分の歩みが揺らいでいるのか。その働きを見失わずにいることです。恐れに促されるまま逃げ、欲望に引かれるまま追いかけていれば、何のために坐ったのかも見えなくなってしまいます。
大地に触れ、実際の行いに立ち返る
降魔の伝承には、釈尊が右手を大地へ伸ばし、それまで積み重ねてきた善行の証人として、大地を呼ぶ場面があります。仏像や仏教美術に見られる、触地印、そくちいんと呼ばれる姿です。
この場面を私たちの暮らしに引き寄せるなら、評価の言葉に揺れたとき、実際の行いに立ち返る手がかりとして受け止められるでしょう。これは触地印そのものの定義ではなく、伝承から日常の実践を考える読み方です。
たとえば、自分は何も続けられないと思ったとき、本当に何一つ続けてこなかったのか、静かに振り返ってみます。誰かに頼まれた用事を果たした日がある。腹を立てながらも、傷つける言葉を口にせずに済んだことがある。短い時間でも、お経に向かった朝があるかもしれません。
そうした行いを思い出すのは、自分の立派さを証明するためではありません。自分への厳しい評価だけでは、見落としてしまう事実があるからです。うまくいかなかった日も、できた日も、どちらも確かめる。その足元からなら、今日できることを、もう一度選び直せます。
誰かに褒められるまで待つ必要も、自分は必ずできると言い聞かせ続ける必要もありません。昨日までの行いを確かめ、今日の行いへ戻る。大地に触れる姿は、そのような落ち着いた立ち返りを、私たちに思い起こさせます。
相手の姿ではなく働きを見抜く
さて、マーラの登場は、悟りを開く前の物語だけではありません。『相応部』の「悪魔相応」には、成道後の釈尊とマーラのやり取りも収められています。
「農夫」と呼ばれる経では、釈尊が修行者たちに涅槃について説いているところへ、マーラが農夫の姿で現れます。感覚を通して経験する世界を自分の領分だとするマーラに対し、釈尊は、そこを超える解脱を示します。そして最後に、マーラは自分が見抜かれたと知り、退いていきます。
この話には問答があります。ただ一言を唱えれば、どんな妨げも消えるという話ではありません。目を向けたいのは、釈尊が相手の姿に惑わされず、その働きを見抜いていることです。マーラが再び現れるからといって、釈尊に未だ断たれていない煩悩が残っていた、という意味でもありません。経典が示す解脱と、私たちが日々練習している途中の姿は、区別して受け止める必要があります。
私たちは、この見抜くという主題から、何を学べるでしょうか。
疑いを命令として受け取らない
先ほどの、前にも続かなかったという思いに戻ってみます。その思いが出たとき、自分は続けられない人間だ、と結論を急ぐ代わりに、以前の失敗を思い出して、また続かないのではないかと考えている、と受け止めてみます。
少し長い言い方ですが、確かめているものが違います。自分という人間のすべてを決めるのではなく、今、何を思い出し、何を恐れているのかを見るのです。そうすれば、心に浮かんだ言葉を、そのまま従うべき命令として受け取らずに済みます。
ここで、頭の中の言葉に、どこまでも反論を続けなくてもよいのです。できないという思いに、いや、できるはずだと答える。すると今度は、前の失敗はどうなのだという思いが出る。そのやり取りに夢中になって、本を開く時間が過ぎてしまうこともあります。
思いの内容を確かめることは必要です。ただ、今日の行いを選ぶために、心の中の疑いを一つ残らず論破しなければならないわけではありません。以前は無理な分量を決めていたのかもしれない。今朝は使える時間が短い。そうした具体的な事情を見れば、分量や時間を整えることができます。心の声への返事を探し続けるより、実際の条件を確かめるほうが、助けになる場合もあるのです。
もちろん、言い換えただけで恐れがなくなるとは限りません。胸の重さが残る日もあるでしょう。消えないから失敗だと考えると、今度は恐れを消すことばかりが気になります。まずは、恐れがあると分かったところで、次の行いを考えます。
長く坐ることが難しければ、今日は短く坐る。読み切れないと思うなら、一節を丁寧に読む。その小さな行いを、恐れとの勝ち負けにしないことも大切です。何も感じない自分になるために行うのではありません。感じていることを確かめながら、善い実践を続けるために行うのです。
必要な休息を大切にする
ただ、ここで気をつけたいことがあります。心を見抜くという話を、立ち止まらずに進めという励ましに変えてしまわないことです。
同じ「悪魔相応」には、釈尊が足に石片を受け、横になって休んでいる場面があります。そこへ来たマーラは、釈尊を怠けているかのようにからかいます。釈尊は落ち着いて答え、マーラは見抜かれたと知って退いていきます。
この場面では、休んでいる姿に、怠けという評価を重ねているのはマーラの側です。外から見て動いていない。それだけで、怠っているとは決められません。私たちも、自分の休息に、同じような厳しい言葉を投げていないでしょうか。
疲れているのに、休みたいと思うのは心が弱いからだ、と追い立てる。身体の状態を確かめるより先に、自分を責める。そのようなときには、休みたいという思いを退ける前に、何が必要なのかを見直したいのです。必要な休息を取ることは、修行を投げ出すことと同じではありません。
準備は何を支えているのか
慎重に考えることも同様です。まだ準備が足りないという判断が、いつも逃げの口実であるわけではありません。確かめるべきことが残っているなら、確かめる。学ぶべきことがあるなら、学ぶ。その働きを、言葉の表面だけで決めつけないことです。
たとえば、お経を読みたいけれど、意味が分からないので、まず解説を少し読む。この準備は、実際に読むことを支えています。一方、完全に理解してからでなければ開けないと考え、何日も本を閉じたままにしているなら、その完全さを求める思いは、どのように働いているでしょうか。
同じように準備を口にしていても、一方は行いを支え、もう一方は失敗への恐れから、着手を遠ざけているかもしれません。だからといって、すぐに自分のずるさを責める必要はありません。分からないまま読むことが怖かったのだと気づけば、分からない箇所を残しながら一節読む、という選び方もできます。
判断するときの問いは、前に進んだかどうかだけではありません。この判断によって、何を守ろうとしているのか。善い実践を支えているのか。それとも、失敗した自分を見たくないという思いに、強く縛られているのか。答えを急がず、具体的な行いを見ながら確かめます。
何度でも気づいたところから
そして、一度気づいた反応が、また出てくることもあります。昨日は、失敗を恐れているのだと分かった。それでも今朝、本を手に取ると、同じためらいが湧いてくる。そういうとき、昨日の気づきは無駄だったと片づけてしまいたくなります。
けれども、何度も繰り返してきた反応が、一度の気づきでなくなるとは限りません。お経に向かうたびに、全部理解しなくてはいけないと身構えてきたなら、その身構えがまた現れることはあるでしょう。そこで、また完全に分かることを求めている、と確かめる。今日も一節を読む。その繰り返しが、日々の実践になります。
この練習は、静かに坐る時間の外にも続きます。たとえば、家族に思いがけない言葉をかけられ、すぐに言い返したくなる。相手の言い方を思い出すたび、こちらにも言い分があるという思いが強くなる。そんな場面でも、今は責められたように感じて、言い返したくなっているのだと、確かめることはできます。
それによって相手が正しいと決まるわけでも、自分の意見を捨てなければならないわけでもありません。伝えるべきことがあるなら、言葉を選んで伝えます。少し間を置く必要があるなら、置く。怒りに押されて傷つける言葉を返す前に、どのように話すかを選び直すのです。途中まで言い返してから気づく日もあるでしょう。そのときも、気づいたところから言葉を改める余地があります。
気づきは、修行がすべて終わったという印ではありません。行いを整えるための始まりです。心の動きを見た後で、どう語り、どう振る舞うか。そこまで含めて、丁寧に続けていきます。何度も戻る必要があるからこそ、一回ごとの気づきを軽く扱わずにいたいのです。
今日できる善い行いへ戻る
マーラの物語を、自分の中に憎むべき敵を探すために使う必要はありません。恐れが出るたびに魔だと決めつければ、恐れている自分をさらに責めることにもなります。また、ためらいが強いほど悟りに近いという証拠にもなりません。心に起きたことは、その都度、働きを確かめるものです。
修行の目的を、何でもできる人になることや、いつも前向きでいることに置くと、不安な心は邪魔者にしか見えなくなります。しかし、ここで大切にしているのは、恐れや欲望に気づき、それに執着して振り回されることを、少しずつ弱めていく歩みです。
次に、どうせできないという言葉が浮かんだら、すぐに追い払わず、すぐに信じ込まず、今、何を思い出しているのかを確かめてみてください。休む必要があるなら休む。確かめることがあるなら確かめる。そのうえで、今日できる善い行いへ戻ります。
大地に触れる釈尊の姿と、マーラの働きを見抜く静けさ。その二つを思い起こしながら、目の前の一節に向かう。昨日できなかったことがあっても、今日の行いは、ここから始められます。
今、あなたをためらわせている思いに気づいたなら、今日の行いをどう選び直せるでしょうか。