唯識で読む『紅楼夢』の愛と執着
『紅楼夢』の黛玉・宝釵・宝玉を唯識の視点から読み、大切な人への願いと、変わらない確かさを求める心を見つめます。
返事を待つあいだに、さっき届いた短い言葉を、もう一度読み返す。昨日よりそっけない気がする。何か気に障ることを言っただろうか。まだ何も確かめていないのに、心の中では、相手が少しずつ遠ざかっていきます。
大切な人の気持ちを知りたい。その願いは自然なものです。けれども、目の前にいる人と、その人について心の中でつくった物語とは、いつの間にか重なってしまいます。今日は『紅楼夢』を、仏教の唯識という教えを手がかりに読みながら、この重なりを見つめてみたいと思います。
夢の茶に漂う涙
『紅楼夢』には、太虚幻境という夢の世界で、お茶が出される場面があります。その茶の名は、千紅一窟。中国語では、多くの女性たちの涙を思わせる言葉と音が重なります。日本語で読むだけでは伝わりにくい趣向ですが、華やかな物語の奥に、すでに涙の気配が置かれているのです。
その涙を、執着した人が受ける報いと読んでしまうと、私たちは登場人物の声を聞き逃します。彼女たちには、愛する喜びがあり、才能があり、自分では動かせない家の決まりや立場もあります。仏教の言葉は、その人生を採点するためではなく、願いと苦しみの結びつきを、もう少し丁寧に見るために借りたいのです。
百二十回本を読む視点
まず、物語の見取り図を少しだけ確かめましょう。『紅楼夢』は、『石頭記』とも呼ばれます。女媧という女神が天を補うときに使わなかった石が、人の世を経験する。その枠の中に、賈宝玉、林黛玉、薛宝釵、そして大観園に暮らす女性たちの人生と、名門の賈家の盛衰が描かれます。ここでは宝玉、黛玉、宝釵と呼ぶことにします。
今回は、広く読まれている百二十回本の結末までを扱います。ただし、最初の八十回と、それに続く四十回では、成立の事情が異なります。物語全体の結末を、そのまま曹雪芹一人の意図として語ることはできません。また、これからお話しする唯識とのつながりも、作品を読む一つの視点です。
黛玉と宝釵は、しばしば対照的な女性として目に映ります。心の揺れを隠しきれない黛玉と、周囲への配慮に優れた宝釵。もし、人は心を整えさえすれば幸せになれるのなら、落ち着いて振る舞う宝釵には、望む幸福が訪れるはずです。ところが、物語は、そのようには運びません。
心の持ち方は、言葉や行動にかかわります。それでも、相手の気持ちや家族の判断まで、自分の努力で決められるわけではありません。どちらが正しく生きたかを比べる前に、二人が何を求め、その願いを何に託していたのかを見る必要があります。
相手の姿に重ねるもの
唯識には、遍計所執性、へんげしょしゅうしょう、という言葉があります。分別によって思い描いたあり方を、確かな実体であるかのようにつかむことにかかわる教えです。日常の言葉に引き寄せれば、自分の抱いた相手の像を、相手そのものと思い込んでしまうことが、その働きを考える入口になります。
たとえば、私を大切にする人なら、いつでも私の気持ちを分かってくれるはずだ。そう信じると、相手が疲れて黙っているときにも、愛情が失われた証拠を見てしまうかもしれません。黙っている理由は、まだ聞いていません。けれども、こちらの中では意味が決まっているのです。
同じ沈黙でも、安心して一緒にいる日の沈黙と、嫌われたのではないかと疑っている日の沈黙では、まるで違って感じられます。こちらの心が、受け取る意味にかかわっているのです。だからといって、すべてが自分のせいなのでも、相手を疑ってはいけないのでもありません。確かめられたことと、恐れから補ったことを、いったん分けてみる余地があるということです。
これは、愛情など存在しないという話ではありません。相手も関係も、さまざまな事情の中で変わっていきます。その変化の中に、自分の望む姿がずっと保たれるはずだと求める。そのつかみ方に、目を向けるのです。
黛玉の涙と閉じた門
黛玉の物語の背景には、絳珠草という草が、神瑛侍者から受けた恩を、人の世で涙によって返すという前世の物語があります。涙が、二人の縁を語る言葉になっています。ただし、これは小説の設定です。現実の恋愛にも、泣いて返さなければならない借りがある、という意味ではありません。
黛玉が求めるのは、宝玉のそばにいられることだけではないのでしょう。自分が、ほかの誰とも取り替えられない相手であること。その確かさを、宝玉の言葉や態度に求めているように読めます。だからこそ、何げない一言も、心を深く揺らします。
宝玉のもとを訪ねて、門が開かれない。その出来事に触れたとき、黛玉の胸には、自分が退けられたのではないかという悲しみが広がります。門が閉じていることと、相手の心が閉じていること。その間には、まだ確かめる余地があるはずです。それでも、失うことを恐れる心には、二つが一つに見えてしまいます。
不安を通して出来事を受け取る。その受け取り方が、また次の不安を強める。この循環は、黛玉だけのものではありません。返事の遅さを気にしているとき、私たちも、届いた言葉の温かさより、待たされた時間の長さばかりを数えてしまうことがあります。
そのようなとき、安心させてくれる言葉を一つもらえば、しばらくは落ち着けるでしょう。しかし、明日も同じように大切にされるという保証まで求めると、今日の言葉だけでは足りなくなります。次の表情、次の返事を確かめたくなる。相手に近づこうとしているのに、心は、失うかもしれない未来のほうへ向かってしまいます。黛玉の揺れに触れるとき、私たちは、その苦しさを自分の経験から思い出せるかもしれません。
けれども、黛玉を思い込みの強い人として片づけることはできません。花を葬り、散る花に自分の行く末を重ねる「葬花吟」には、失われるものに心を寄せる豊かな感受性があります。彼女の孤独も、愛情も、読み違いという一言では消せません。そして、その死を、執着や考え方が招いた結果として説明してはならないのです。
宝釵の配慮と居場所
では、周囲に気を配り、才知にも恵まれた宝釵はどうでしょう。人を困らせず、場にふさわしく振る舞えることは、大切な力です。しかし、その力がある人にも、自分の望みを置く場所が見つからないことはあります。
周りから認められる姿でいれば、自分の居場所も確かになる。宝釵の歩みには、そんな願いを読み取ることができます。家に認められる婚姻の形を得ても、それだけで二人の心が通い合うわけではありません。ふさわしい相手と認められることと、愛する相手から心を向けられることは、同じ出来事ではないからです。
宝釵にかかわる判詞には、金のかんざしが雪の中に埋もれる姿が描かれます。それを、才能や願いが、人から望まれる姿の陰に埋もれていくイメージとして読むこともできます。落ち着いて見える人の内側が、いつも穏やかだとは限りません。
私たちにも、迷惑をかけない人でいたいという思いがあります。頼まれれば引き受け、つらくても平気だと答える。そのうちに、断れば相手を失望させるという不安が先に立ち、自分が何を感じていたか分からなくなる。配慮が偽物なのではありません。配慮できる自分でなければ、ここにいてはいけないと思うとき、心に余裕がなくなっていくのです。
たとえば、誰かに頼られて嬉しかったはずなのに、いつしか、頼みを断れない自分になっている。引き受けた後で疲れを感じても、親切な人ならこんなふうに思わないはずだと、その疲れまで否定してしまう。そこで一度、自分は疲れているのだと認めることは、これまでの親切を取り消すことではありません。人に向けてきた配慮の中に、自分の実際の気持ちも置いてみることです。
唯識が説く末那識、まなしき、は、自己への執着にかかわる識です。人に見せる顔だけを意味する言葉ではありません。ただ、認められている姿を失うことが、自分そのものを失うことのように感じられるとき、この教えは、私たちが何を「私」として握っているかを考える手がかりになります。
宝玉が失いたくなかった世界
黛玉には、ただ一人の相手として選ばれたいという願いが見えます。宝釵には、周囲に認められる確かな立場への願いが見えます。どちらにも、その人なりの切実さがあります。悲しみを表に出すか、内に収めるかだけで、執着の深さを比べることはできません。
その二人の間にいる宝玉は、仕官や立身出世に価値を置く生き方に、違和感を抱いています。けれども、家が求める成功に背を向けているからといって、何も握っていないわけではありません。親しい人たちと過ごす大観園の日々も、彼にとっては失いたくない世界だったはずです。
やがて、その世界から人々が離れ、黛玉との別れも訪れます。百二十回本の終盤では、雪の中で父と別れる宝玉の姿と、出家という結末が置かれます。ここには、確かだと思っていた暮らしが失われた後、自分が何を頼りにしていたのかを問い直す姿を読むことができます。
ただ、失えば必ず悟れるわけではありません。深い喪失は、人を傷つけもします。宝玉の出家を、そのまま仏教の悟りの達成と決めることも、黛玉より修行が進んでいた証拠とすることもできません。読み取れるのは、世界を思いどおりにつかもうとする生き方から、そのつかみ方を問い直す可能性です。
無常という言葉は、何もかも失われるのだから、大切にしても無駄だという諦めには結びつきません。昨日と同じように見える相手にも、今日は今日の事情があります。親しかった時間を大切に思いながら、今、その人がどこに立っているのかを見ようとする。そのためには、かつての姿だけで相手を決めないことが必要になるのでしょう。宝玉の喪失が私たちに残す問いも、悲しみを急いで消す方法より、失いたくなかった世界をどう見つめるか、ということではないでしょうか。
家の体面と聞こえなくなる声
この問いは、一人ひとりの心を越えて、賈家全体にも向かいます。権力や支配を手放せない王熙鳳。家の規範を守ろうとする賈政。欲望に動かされる賈赦。それぞれが異なるものを求めながら、名門としての家を支えています。
名門である以上、ふさわしい体面を保たなければならない。そうした思いが強まると、実際の暮らしがどうなっているかより、立派に見えるかどうかが優先されます。家の衰退には、制度や周囲の力関係など、心だけでは説明できない事情があります。そのうえで、変わっていく現実よりも、変わらぬ家の像を守ろうとする姿に、執着を見ることはできるでしょう。
家の名前や肩書は、人と人との間で働くものです。それを支える事情が変わっても、名前さえ守れば以前のままでいられると考えると、目の前の困り事が見えにくくなります。身近な家庭でも、うちは仲のよい家族だから、と言いながら、誰かの寂しさを聞けなくなることがあるでしょう。大切にしてきた家の姿が、今ここにいる家族の声を遮っていないか。賈家の物語は、そんな小さな問いにもつながります。
本を閉じた後の問い
夢のような人の世を、石が経験する。『石頭記』という名に戻ると、この物語は、失ったものを嘆くだけでなく、経験した世界を見つめ直す物語にも見えてきます。通霊宝玉も、その経験と振り返りを考える象徴として読むことができます。そこに、永遠に変わらない魂を想定する必要はありません。
『紅楼夢』を閉じても、私たちの暮らしには、大切な人がいます。よい人でありたいという願いも、守りたい居場所も残ります。その願いをすぐに捨てることはできないでしょう。まずは、相手が実際に口にした言葉を、自分が心の中で補った意味から、少しだけ分けて聞いてみる。そこには、まだ尋ねていないことがあるかもしれません。
次に誰かの返事を待つとき、あなたには、その人の今の姿がどのように見えるでしょうか。そして、その姿に、どんな変わらぬ約束を重ねているのでしょうか。