成唯識論でたどる私という感覚

湯飲みを見る身近な経験から、『成唯識論』の八識と心所をたどり、「私」という感覚への執着、変化する心の相続、無我と行為の結果を確かめます。

成唯識論でたどる私という感覚

目の前の湯飲みを見ているのは、誰でしょうか。

私に決まっている。そう答えるのが自然です。けれども、その「私」は、いま起きている経験のどこにいるのでしょう。湯飲みの色が見えるところでしょうか。友人からもらった日のことを思い出すところでしょうか。それとも、これは自分の大切なものだと感じるところでしょうか。

今日は『成唯識論』の八識を手がかりに、この身近な経験をたどってみます。『成唯識論』は、世親の『唯識三十頌』に対する注釈を、玄奘が護法の学説を中心にまとめた論書です。八識という言葉だけ聞くと、心の中に八人の担当者がいるようにも思えます。しかし、そうした人物を想像する前に、実際に何が起きているかを見ていきましょう。

最初に、説明との付き合い方を確かめておきます。月を指す指を見つめ続けていると、肝心の月を見失います。川を渡るための筏も、渡った後まで抱えて歩けば重荷になります。仏法の説明も、経験を見る助けになりますが、説明を知っていることが、そのまま修行になるわけではありません。「これは末那識だ」と言えたところで、執着がどう起きたかを見ていなければ、言葉を一つ覚えたところにとどまります。

八識は、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識という前五識と、第六の意識、第七の末那識、第八の阿頼耶識です。一度に覚えようとしなくてもかまいません。湯飲みを前にして、色と形が見えることと、それを湯飲みだと分かることを、少し分けて考えてみます。

眼識は、見るという感覚の領域に関わります。耳識は音、鼻識はにおい、舌識は味、身識は身体で感じることに関わります。ここでは、その感覚の働きと、対象を名づけて考える働きとの違いに目を向けます。前五識を、ただ信号を送るだけの機械と決めつける必要はありません。

白い地に青い模様が見えます。そして、湯飲みだと分かります。いつもの食器棚にあったものだと思い、贈ってくれた友人の顔が浮かびます。今日はこれでお茶を飲もうと考えるかもしれません。こうした名づけや記憶との結びつき、判断には、第六意識が関わります。

私たちは見ると同時に、すでに多くの意味を受け取っています。同じ模様でも、思い出のある人には懐かしく、初めて見る人には珍しく感じられます。感覚だけを取り出して暮らしているわけではないのです。

知らない言語の放送を聞くときも、似たことが起こります。音は聞こえていても、何を話しているのか分かりません。その言語を学んだ人なら、言葉として受け取り、話の内容を理解できます。二人の聞こえ方がまったく同じだという意味ではありません。過去に学んだことが、いまの理解に関わっているということです。現在の経験は、この瞬間だけで閉じていません。

ですから、目の前のものを見たという簡単な言葉の中にも、以前に見聞きしたことが入り込んでいます。友人からもらった湯飲みを眺めながら、その友人と過ごした時間を思い出す。すると、ただ青い模様を見るだけではなかったことが分かります。見えるものと、それについて思うことを丁寧にたどるだけでも、経験の受け取り方には幅があると気づけます。

湯飲みに戻りましょう。色や形が見え、思い出が浮かぶ。それだけでなく、「私の湯飲み」という感覚があります。もし誰かがうっかり落として割ってしまったら、同じ値段の新品を買ってもらっても、簡単には納得できないかもしれません。失われたのは器だけではない、と感じるからです。

この、経験を自己に結びつけてつかむ働きを考える鍵が、末那識です。唯識では、末那識は阿頼耶識に依り、それを対象として思量すると説かれます。その流れを自己としてつかむ執着が問題になります。ふだん私たちは、何かを見るたびに「これを見ているのは私だ」と口にしません。それでも、自分を中心に受け取る働きは、気づかれにくいまま続いています。

それが表に出やすいのは、何気ない冗談に腹が立ったときです。相手の言葉を聞き、意味を理解する。そのうえに、「私が軽く扱われた」という受け取り方が重なります。すぐに言い返したくなったり、後になってもその場面を思い返したりします。

もちろん、怒りのすべてを末那識だけで説明することはできません。相手の言動に問題がある場合もあります。傷ついたことを、あなたの執着のせいだと片づけるための説明でもありません。ここで見たいのは、傷ついた経験に「私」というつかみ方がどのように関わるかです。相手の言葉と、自分の受け取り方を区別して見られるわずかな間が、観察の入口になります。

たとえば、「そんなことも知らないの」と言われた後、心の中で何度も反論を繰り返しているとします。相手はもう目の前にいなくても、言葉を思い出すたび、不快さが生じます。そのとき、音が聞こえた出来事と、今も続いている反応とは同じではありません。知らないことがあったという事実に、知らない自分ではあってはならないという思いが重なっているのかもしれません。そこを確かめることは、自分を責めることとは違います。

では、末那識が自己としてつかむ阿頼耶識は、心の奥に隠れた本当の私なのでしょうか。ここで、永遠に変わらない魂を置いてしまうと、無我を考える道筋から離れてしまいます。阿頼耶識も、変化を離れた固定した実体として説かれているのではありません。

同じ川に見えても、水はとどまらず流れています。流れが続くことと、同じ水が動かずに残ることは違います。阿頼耶識についても、変わりながら相続するという点を見失わないことが大切です。その相続を説明するうえで、種子という言葉が用いられます。

種子は、過去の場面をそのまま保存した写真ではありません。条件がそろうと働きを生じる、潜在的な可能性として考えてみます。そこから現に働きが起こることを現行といいます。そのうち、種子を薫ずる力をもつ働きが、種子を生じさせたり育てたりすることを薫習といいます。種子から現行が生じ、現行が種子を薫ずる。この関係は、日々の習慣を振り返る手がかりになります。

たとえば、少し退屈するとスマートフォンに手が伸びる。最初は、ただ何となく開いただけかもしれません。けれども、それを繰り返すうちに、待ち時間ができるたび、画面を確かめるようになります。繰り返した行動が次の反応をしやすくし、その反応がまた習慣を強めていくのです。

これは種子と薫習を理解するための日常の例です。種子を神経回路や記憶のデータと同じものだとする説明ではありません。また、習慣が続くからといって、一生変えられない宿命だということにもなりません。反応の積み重ねが関わるなら、日々の振る舞いを見直す意味があります。

退屈な時間が来たとき、すでにスマートフォンに手が伸びていたと気づく日もあるでしょう。開く前に、その動きに気づく日もあるかもしれません。どちらであっても、同じ反応が起こる条件を知る手がかりになります。習慣を変えようとするなら、私はこういう人間だからと結論を急ぐより、どのようなときに、どのような行動を繰り返しているかを見ていくことです。ただし、一度気づくだけで種子が消え、業がなくなるという話ではありません。

ここまでを、湯飲みを見る経験に重ねてみます。色や形を見る働きがあり、湯飲みと分かる働きがあります。過去の経験が理解に関わり、自分の大切なものとして受け取る執着も関わります。それらは、八つの装置が順番に仕事を渡していくような仕組みではありません。いつでも八識のすべてが一律に働く、と言っているわけでもありません。一つの経験を、関わり合う働きから見直しているのです。

それでも、どこかに全体を見ている主人がいるはずだと思えるかもしれません。頭の中に小さな部屋があって、そこにいる自分が映像を眺め、音を聞き、判断を下している。そんな姿を想像すると、分かった気になります。

けれども、その小さな自分は、どうやって映像を見るのでしょう。その中にも、また見ている自分が必要になるのでしょうか。観客を一人置いただけでは、見るという経験を説明したことにはなりません。八識を考えるときも、その背後に新たな主人を置かず、いま生じている働きへ戻ることが必要です。

さらに、識は単独で働くわけではありません。唯識では、識を心王と呼び、それに伴う心の働きを心所と呼びます。「王」という名前ですが、心の奥に命令を下す王様がいるという意味ではありません。

基本的な心所に、触、作意、受、想、思があります。触は、識と、その拠り所と対象とが関わるところで、経験の成立に関わる働きです。作意は、心を対象へ向ける働きです。受は、快い、不快である、そのどちらでもないという感受です。想は、対象の特徴を捉える働きです。思は、心をある方向へ動かす意志の働きとして考えられます。ここでは、厳密な定義を尽くすより、識に伴う働きにも目を向けてみましょう。

湯飲みを手に取ると、温かさを感じます。その温かさに注意が向き、心地よさを感じ、いつもの器の特徴を捉えます。そこから、お茶を口にしようという動きも起こります。これは説明のために分けて述べています。実際の経験が、この順番どおりに一つずつ進むという意味ではありません。「私が考えた」とひとまとめにしていた出来事にも、いくつもの働きが伴っているのです。

こうして見直すと、不変の私を、どれか一つの識や一つの記憶の中に見つけることは難しくなります。虹を一滴の水の中に探しても、虹そのものは見つかりません。だからといって、虹が見えていることまで否定する必要はありません。条件によって成り立つことと、独立した実体があることを、分けて考えるのです。

このたとえから、私という実体が識と識の隙間に隠れている、と考える必要もありません。無我は、経験も苦しみもなくなるという意味ではありません。悲しいことは悲しく、行為には結果が伴います。固定した主体をつかめないことと、経験や因果の連続を否定することは別です。

誰かにきつい言葉を返した後で、私などいないのだからと、その行為を片づけることはできません。相手が傷ついた経験も、言い返す習慣が強まることも、見ていかなければなりません。無我を学ぶことは、自分の反応から目をそらす理由にはならないのです。むしろ、変わらない私を守ろうとして何が起きているのかを、より細かく確かめる問いにつながります。

八識の説明を知ると、心の倉庫をきれいに整理したくなるかもしれません。嫌な記憶を奥へしまい、好ましい経験だけを手元に置く。しかし、整理だけに気を取られると、何を手放せずにいるのかが見えなくなります。なぜ、その言葉を何度も思い返すのでしょう。なぜ、あの場面で自分が正しかったと確かめ続けたいのでしょう。やがて、きちんと整理している私という姿そのものにも、執着してはいないかと問うことになります。

今夜、静かに座るとき、今日腹が立った場面を一つ思い返してみてください。言葉を思い出すこと、不快さを感じること、言い返したい思いが起こること。その中で何を「私」と受け取っているのか、結論を急がず確かめてみます。八識の名前で仕分けることより、自分の反応を確かめることが先です。

湯飲みを見ている私は、どこにいるのか。最初の問いは、知識だけで答えを閉じるためのものではありません。明日また何かに心が動いたとき、その経験のどこを、あなたは「私」としてつかんでいるのでしょうか。