賭場にも酒場にも赴いた――維摩詰が示す、俗世を離れない修行

俗世と清浄を分ける心こそ執着ではないか。維摩詰、天女散華、不二法門を通して、仕事や家庭をそのまま道場にする実践を読み解きます。

賭場にも酒場にも赴いた――維摩詰が示す、俗世を離れない修行

俗世を離れなければ修行できないのか

修行を深めるには、今の暮らしを離れ、もっと清らかな場所へ行かなければならない。そう考えたことはないでしょうか。

仕事に追われ、家族との行き違いに悩み、心が欲や怒りに揺れるたびに、私たちは思います。こんな環境では修行にならない。日々の用事から解放されれば、もっと静かな心になれるはずだ、と。

けれども『維摩経(ゆいまきょう)』は、その前提を根本から問い直します。世俗から離れることによって清浄になるのではなく、世俗と清浄を二つに分け、一方を嫌い、もう一方を求める心こそが、新たな執着を生んでいるのではないか。経典の主人公である維摩詰(ゆいまきつ)は、その問いを生き方そのもので示します。

維摩詰は、毘耶離に暮らす裕福な在家の菩薩です。財産を持ち、家族を持ち、王侯や商人や庶民と交わります。官界や市場だけでなく、賭場や酒場のような場所にも赴いたと説かれています。しかし、それは享楽に身を任せるためではありません。そこにいる人々と出会い、それぞれにふさわしい方便(ほうべん)をもって導くためでした。

経典は、維摩詰が財を持ちながらもそれに執着せず、妻子がありながら五欲にも執着しない姿を描きます。ここで大切なのは、欲望を力ずくで押さえ込み、耐えているということではありません。財産や家族や立場を、自分という存在に結びつけて固めないのです。現れたものを映しながら、その像をとどめない鏡のように、経験を通過させていきます。

天女の花が示す分別と執着

この維摩詰が、あるとき病を示します。仏陀は弟子たちに見舞いを命じますが、高弟たちは、かつて維摩詰との問答で言葉に窮したことを思い出し、次々と辞退します。最後に文殊菩薩が一行を率いて、維摩詰のもとを訪れます。

その室内で起こるのが、よく知られた天女散華の場面です。天女が花をまくと、花びらは菩薩たちの身体から自然に滑り落ちました。ところが、舎利弗をはじめとする弟子たちの身体には、ぴたりと付着します。

舎利弗は、出家者の身にこの花があるのは法にかなわないと考え、取り除こうとします。神通の力まで用いますが、花は離れません。退けようとすればするほど、花はますます気になる存在になります。

天女は、花そのものに分別はないと指摘します。花が菩薩と弟子を見分けて、付く相手を選んだのではありません。そして、こう説きます。

「結習(けつじゅう)いまだ尽きざるがゆえに、花、身に著くのみ。結習尽くる者には、花、著かざるなり」

結習とは、長い間に積み重なった心の癖、執着の残りです。花を貼り付けていたのは、花の側にある性質ではありません。「これはあってはならない」という舎利弗の分別と、それを排除しようとする心でした。

日常で心に貼り付く物語

私たちの日常にも、同じことが起こります。上司から、短い連絡が届いたとします。書かれているのは、ただ簡潔な用件だけです。ところが心は、そこに「自分への不満がある」「評価を下げられたのではないか」という物語を重ねます。その瞬間から、短い文面は一日中離れない不安になります。

家族の帰宅が遅いときも同じです。帰宅が遅いという事実に、「私を大切にしていない」という意味を貼り付ければ、まだ事情を聞いてもいないうちから怒りが育っていきます。私たちを苦しめているのは、出来事だけではありません。出来事に重ねた解釈を、現実そのものだと思い込むことが、苦しみを増幅させます。

後代の唯識の言葉を借りれば、この働きは遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)になぞらえることができます。因縁によって現れた現象に、名称や評価や物語を重ね、それを固定した実体のようにつかむ働きです。天女の花は、分別心という糊によって、私たちの身に貼り付くのです。

もちろん、分類すること自体が悪いわけではありません。善いか悪いか、安全か危険か、正しいか誤っているか。人は分類することによって、複雑な世界にすばやく応じています。仕事にも、家庭生活にも、判断は必要です。

問題は、分類を現実そのものだと思い込むことです。一度「扱いにくい人」と名づけると、その人が何を言っても、扱いにくさの証拠に見えてきます。一度「価値のない案件」と分類すれば、目の前に新しい可能性が現れても、過去の基準に合わないという理由だけで見落とします。「前にも同じことがあった」と思ったとき、私たちは新しい現実ではなく、過去につけた名前を見ているかもしれません。

たとえば投資の判断では、過去の経験から作られた基準が必要です。けれども、その基準に合わないというだけで、まだよく見ていない事業を退けるなら、分類は観察の代わりになってしまいます。いったん「良い案件」「悪い案件」という札を脇へ置き、事業そのもの、人そのものを見直す。そのとき初めて、主流の評価には収まらない実像や可能性が見えることがあります。これは、何でも「今回は特別だ」と信じることではありません。判断を捨てるのではなく、自分の判断が対象を覆い隠していないかを確かめるのです。

世間と出世間を二つに分けない

修行についても同じです。世俗に生きる今の自分は劣っていて、煩悩を離れた未来の自分は優れている。迷いの側から悟りの側へ移らなければならない。そう考えると、修行は、現在の自分を退け続ける営みになりかねません。

戒律も努力も、決して不要なのではありません。衝動に流されないように身を整え、心を育てることは大切です。ただし、それらを使って「汚れた自分」と「清らかな自分」を固定し、両者の間に距離を作り続けるなら、清浄を求める心そのものが、次の花となって付着します。

静かな寺院や山林に身を置けば、外からの刺激は少なくなるでしょう。しかし、外側の静けさが、そのまま内側の静けさを保証するわけではありません。清らかな自己像を守ろうとして、心の中で絶えず善悪を裁き、現れる感情と争っていることもあります。反対に、騒がしい職場や慌ただしい家庭の中にいても、起こることを明らかに観て、つかまずに通過させることはできます。

維摩詰は、世間を選び、出世間を否定した人物ではありません。世間と出世間を、初めから対立する二つの領域として扱わないのです。財産も、家族も、仕事も、それ自体が人を縛るのではありません。それを「私のもの」「私の価値」「私を妨げるもの」として固くつかむとき、心は縛られます。花が菩薩の身から滑り落ちたように、執着しなければ、世俗の現象も心を通り過ぎていきます。

不二法門と維摩詰の沈黙

この不二の教えが最も鮮やかに現れるのが、「入不二法門品」です。維摩詰が、どのようにして不二法門(ふにほうもん)に入るのかと問うと、三十一人の菩薩が、それぞれの言葉で答えます。生と滅、垢と浄などの対立を挙げ、その二つを離れる道を説きました。

続いて文殊菩薩は、さらに深い答えを示します。

「一切の法に言なく、説なく、示なく、識なく、もろもろの問答を離る。これを不二法門に入るとなす」

あらゆるものは、言葉による説明や表示を離れ、問答を超えている。そこに不二法門があるというのです。けれども、「不二は言葉を超えている」と説明することも、なお言葉による説明です。概念を用いて、概念の外へ出ようとしています。

最後に文殊菩薩は、維摩詰に答えを求めます。維摩詰は、何も語りません。ただ黙然としています。文殊菩薩はそれをたたえ、文字も言語もないところに至ってこそ、まことに不二法門に入るのだと認めました。

この沈黙は、「語るより黙るほうが優れている」という教えではありません。もし沈黙を優れた答えとして選べば、語ることと語らないことを再び二つに分けただけです。維摩詰の沈黙には、その比較自体がありません。答えを説明し、所有し、自分の立場にしようとする心の動きが、そこで静まっています。

衆生の病と切り離されない大悲

維摩詰の病もまた、不二の実践を示しています。彼はこう語ります。

「一切衆生が病むをもって、このゆえに我も病む。もし一切衆生の病が滅すれば、すなわち我が病も滅する」

菩薩は、自分だけを苦しみから隔離して、遠くに解脱を求めるのではありません。苦しむ人々がいるから、そのただ中へ入っていきます。相手の苦しみに触れながら、それに呑み込まれず、目覚めを促す縁を結びます。維摩詰にとって財産も身分も、宮廷も市場も、人々に出会うための方便でした。

維摩詰の病は、人を集めて法を説くための方便であると同時に、衆生の苦しみと切り離されない大悲の表現でもあります。ここには、自分が安らぎを得れば修行は終わる、という発想はありません。人々の痛みに近づくことと、その痛みに絡め取られないことが、別々ではなく一つの実践になっています。苦難からただ逃れる力ではなく、苦難の中へ入り、そこにいる人とつながりながら、心を明らかに保つ力が求められているのです。

仕事と家庭を日々の道場にする

これは、仕事や家庭を簡単には離れられない私たちにとって、大きな示唆です。締切、生活費、子育て、難しい顧客、家庭内の衝突。それらは、修行を妨げる雑事とは限りません。自分がどこで反応し、何を恐れ、どのような自己像を守ろうとしているのか。それを映し出す、日々の天女散華でもあります。

腹立たしい言葉を受けたとき、すぐに感情を消そうとしなくてもよいのです。まず、「失礼な人だ」「私を軽んじている」と名づける心に気づきます。不安が現れたときも、「こんな感情は修行の邪魔だ」と追い払う前に、その不安を観ます。忍ぶことが衝動に従わないための大切な段階だとすれば、観ることは、押さえ込む自分も含めて、心の動きを明らかに見届ける実践です。

忍ぶとき、心の中には、抑える側と抑えられる側が残ることがあります。怒ってはいけない自分が、怒っている自分を押さえつける。欲を持ってはいけない自分が、欲を感じた自分を責める。それが必要な時期もありますが、対立が続けば、表面が静かでも内側では争いがやみません。観るときは、怒りだけでなく、「怒りを消して清らかな自分になりたい」という願いも見届けます。どちらかを正しい側に置かず、起こり、変わり、過ぎていく様子を観るのです。

たとえば家庭で言い争いが起きたなら、相手を変える方法を考える前に、自分が相手に貼った名前を確かめます。「いつも分かってくれない」「また同じだ」という言葉が、目の前の人を過去の像に閉じ込めていないでしょうか。難しい顧客に向き合うときも、「この人さえいなければ仕事は平穏なのに」という思いの奥に、どんな抵抗があるのかを観ます。問題を放置するのではありません。必要な対応をしながら、心の中で余分な花を貼り付けていないかを確かめるのです。

答えのなさにとどまる

ただし、ここで「分別は悪い。無分別こそ正しい」と結論づけてはいけません。それでは、新しい対立を作るだけです。「私は執着していない」「私は日常を道場にできている」という自己像も、気づかないうちに身に付着する花になります。

では、分別しないことを求めるのも分別なら、どうすればよいのでしょうか。

すぐに使える答えはありません。答えがないことに落ち着かず、私たちは新しい方法や標語をつかみたくなります。しかし、そのつかもうとする動きこそ、今ここで観ることのできる心です。

生活を捨て、別の場所へ行く前に、目の前の出来事と自分との間に、どのような名前や物語を置いているのかを静かに見つめてみます。世間と出世間、煩悩と悟り、今の自分と目覚めた自分。その境界を作っている心に、その都度気づいていきます。

維摩詰の沈黙は、私たちから答えを奪うものではありません。答えを所有しなければ安心できない心を、そのまま照らしています。そこから逃げず、何かになろうとする前の一瞬にとどまる。その答えのなさに耐えるところから、日常の修行は静かに始まります。

では、今「修行の妨げ」と呼んでいるものは、本当に妨げなのでしょうか。それとも、心に貼り付いた花を見つめるために現れた、日常の道場なのでしょうか。