坐禅では、何をしているのか

坐禅で思いが浮かぶことと、それを失敗と決めること。その間を、唯識と止観を手がかりに見つめます。日常の一呼吸から、固定した自己や期待への執着を問い直します。

坐禅では、何をしているのか

坐禅をしている間、私たちは何をしているのでしょうか。息に注意を向けていても、昨日の会話が浮かび、明日の用事が気になります。静かに坐るつもりだったのに、心の中では言葉が途切れません。そこで、考えてしまう自分は修行に向いていない、と決めつけてしまうことがあります。しかし、その判断が生まれるところにも、見つめるべき心の働きがあります。

心は静かでなければならない。雑念はあってはならない。そんな期待を抱いて坐ると、思いが浮かぶたびに、自分を責める理由が増えていきます。修行を、頭の中を空にする作業としてだけ捉えてしまうと、静けさを求める気持ちそのものに追い立てられます。念が起きることと、その念を失敗と決めること。その間を、少し丁寧に見てみたいのです。

出来事に意味をつける心

日常でも、私たちは出来事を受け取ると同時に、意味をつけています。知人に挨拶をしたのに、返事がない。聞こえなかったのかもしれません。考え事をしていたのかもしれません。それでも、以前に冷たくされた記憶があれば、また避けられたのだという思いが、すぐに浮かぶことがあります。返事がなかったという出来事から、相手の気持ちまで分かったつもりになるのです。

このような見方を考える補助線として、現代の認知科学には、予測符号化という考え方があります。感覚から届く情報をただ受け取るだけでなく、過去の経験に基づく予測と照らし合わせ、その違いを通じて認識を更新するという説明です。脳の働きのすべてを説明する、確定した唯一の理論ではありません。それでも、私たちが見るとき、すでに何かを予想しているという点に、注意を向けさせてくれます。

たとえば、編集長が記事の見通しを立て、記者が現場へ出て確かめる場面を想像してください。見通しがあるから、何を調べるかが定まります。一方で、現場が予想と違えば、記事を書き直す必要があります。初めの筋書きにこだわりすぎれば、記者の報告を受け取れなくなるでしょう。これは脳の仕組みをそのまま写した説明ではありませんが、予測と修正の関係を考えるたとえになります。

ここでは、どんな予想をするかだけでなく、それをどれほど確かなものとして扱うかも大切です。理論では、事前信念や、精度の重みづけという言葉を使います。ただし、数理モデルでいう精度と、日常の頑固さや仏教でいう執着は、同じ概念ではありません。比較から受け取れるのは、自分の見通しを確実だと思うあまり、違う情報が届いても見直しにくくなっていないか、という問いです。

唯識から日々の反応を見る

仏教の唯識も、経験と心の働きの関わりを深く考えてきました。唯識には、阿頼耶識、あらやしきと呼ばれる識に、種子、しゅうじという潜在的な働きを説く教えがあります。種子を因として、縁に応じて生じる具体的な働きを、現行、げんぎょうといいます。ここでは、そのうち心の働きに注目します。そして現れた働きが、また種子に影響を及ぼす。そのように傾向が育まれることを、薫習、くんじゅうと呼びます。

この教えを日々の習慣に引き寄せて考えるなら、以前の反応が次の反応に影響し、今日の反応がまた後の傾向を育てる、といえるでしょう。相手の沈黙を拒絶と受け取って、こちらも冷たくする。そのやり取りが、やはりこの人は冷たいという見方を強めることがあります。自分の見方を通して行動し、その結果によって同じ見方を深めていく。そうした循環は、私たちにも思い当たるものです。

たとえば、返事がないまま別れた知人に、後になって事情を尋ねるとします。その日は気にかかることがあって、挨拶に気づかなかったと分かるかもしれません。もちろん、実際に意見の食い違いがある場合もあるでしょう。確かめる前には、どちらとも決められません。自分の受け取り方を仮のものとしておけば、相手の言葉を聞くことができます。冷たくされたという思いが浮かんでも、その思いだけで次のやり取りを決めずにすむのです。

だからこそ、怒りが起きたときに一呼吸おくことにも意味があります。すぐに言い返す前に、いま何を決めつけたのかに気づく。それによって、いつもとは違う応答を選ぶ余地が生まれます。種子の教えは、この小さな反復を考える手がかりになります。ただ、種子を脳内の記憶データと同じものにしてしまうと、唯識が説く範囲を狭めてしまいます。認知科学との共通点を考えながらも、同じ理論だとは決めない姿勢が必要です。

三性と固定した見方

唯識の三性という教えも、私たちの捉え方を見直す手がかりになります。依他起性、えたきしょう。遍計所執性、へんげしょしゅうしょう。そして円成実性、えんじょうじっしょうです。難しい言葉ですが、ここでは、経験が条件によって生じることと、そこに固定した本質を思い描いてしまうことの違いから、近づいてみましょう。

依他起性は、さまざまな縁によって生じるあり方をいいます。見たり聞いたりすることだけでなく、心の中の判断も条件によって起きています。疲れている日と、よく休んだ日では、同じ言葉の受け取り方が違うことがあります。過去の記憶、その場の関係、自分の期待も関わります。ここでいう条件による生起は、まだ解釈していない感覚だけを指すのではありません。

ところが私たちは、そうして生じた判断を、物事そのものの変わらない姿として捉えがちです。一度うまく話せなかっただけで、自分は人付き合いのできない人間だと思う。相手の一言から、この人はいつも自分を軽んじる人だと決める。このように固定した本質を思い描く日常の姿は、遍計所執性を考える入り口になります。ただし、これだけで教義のすべてを説明できるわけではありません。

円成実性は、縁によって生じるものに、私たちが思い描いた固定的な自性が本来ないことを示します。単に、自分の思考を客観的に観察できるようになる、という意味には収まりません。心を眺めることができたとしても、その背後に、何ものにも左右されない観察者としての私を立てれば、固定した自己を別の場所へ置いただけになってしまいます。観察する側も含めて、何を実体としてつかんでいるのかが問われるのです。

変化する暮らしと執着

この問いは、苦しみの受け取り方にもつながります。空腹なら食事をとる。困ったことがあれば、できる手立てを考える。それは暮らしに必要な応答です。一方で、二度と不快になりたくない、何も失いたくない、将来は必ず安心できるものであってほしい、と求めるとどうでしょうか。変わり続ける生活に、変わらない保証を求めることになります。

食事をすれば空腹は和らいでも、永久に空腹にならない体にはなりません。人と分かり合える時間があっても、いつでも同じ気持ちでいられる保証はありません。その変化のたびに、こうなるはずではなかったと現実を拒めば、出来事のつらさに、さらに苦しさが重なります。執着を見直すというのは、必要な行動をやめることではなく、行動してもなお保証できないものを、どこまで要求しているかに気づくことです。

貪、瞋、痴という三毒も、この日常の中で考えられます。貪は、好ましいものをむさぼり、つかんで離そうとしない心です。瞋は、怒り、憎み、反発する心です。痴は、物事のあり方を明らかに見ない無明です。自分の反応に引き寄せれば、心地よさを手放したくない、不快なものを遠ざけたい、その動きに自分が動かされていることに気づかない、といった姿が見えてきます。

こうした働きを、脳の予測が外れたときの反応だけで説明することはできません。仏教が問うのは、苦をどう知り、執着をどう離れていくかです。科学の言葉が理解を助ける場合はあっても、用語を置き換えれば、そのまま修行の道が分かったことにはなりません。理屈では納得しているのに、同じ一言にまた腹が立つ。その隔たりのあるところから、実践は続いていきます。

呼吸へ戻り、心を確かめる

そこで、止観、しかんという実践へ戻ってみます。止は、散り乱れる心を落ち着かせること。観は、その落ち着きを支えに、智慧によって対象を吟味し、あり方を確かめていくことです。伝統によって方法や説明には違いがありますが、考える働きをすべて消し、刺激だけを受け取れば完成する、というものではありません。

息に注意を向けていると、用事が気になったことに気づきます。気づいたなら、呼吸へ戻る。しばらくすると、今度は誰かへの不満が浮かびます。そのとき、こんなことを考えてはいけないと争い始める前に、怒りが起きていると確かめます。胸の緊張、頭の中で繰り返す言葉、相手を責めたい衝動。それぞれを、自分のすべてと決めずに見ていきます。

落ち着きがあれば、何を当然だと思っていたのかにも目を向けられます。すぐに返事をもらえるはずだった。努力した分だけ認められるはずだった。その期待に気づいても、感情がすぐ消えるとは限りません。それでも、怒りに押されて言葉を投げるまでの間に、相手の事情を確かめる余地が残るかもしれません。短い呼吸の観察だけで止観が完成するわけではありませんが、日常の反応を見直す入り口にはなります。

観察しているうちにも、心の様子は動きます。強かった怒りが少し遠のき、代わりに寂しさが感じられることもあるでしょう。再び相手の言葉を思い出して、怒りが戻ることもあります。変わったから成功、戻ったから失敗と採点し続けると、また思いどおりに心を動かしたいという要求が強まります。いま起きていることを確かめ、その変化を見ていく。気づけなかった時間があっても、気づいたところから、もう一度向き合うことができます。

科学研究と修行の達成

瞑想中の注意や、自己について考える働きを調べる科学研究もあります。脳のデフォルトモードネットワークに着目し、熟練した瞑想者と未経験者との間に、活動や結びつきの違いを報告した小規模な研究があります。ただ、もともとの個人差もあるため、その違いが瞑想によって生じたとは、この比較だけでは言えません。また、仏教の悟りそのものを測ったものでもありません。どんな坐禅でも同じ変化が起こると断定することもできません。

また、自分についての強い確信が緩むという理論を、瞑想に重ねる議論もあります。しかし、薬物の作用を説明するための仮説を、そのまま止観の仕組みとして扱うことはできません。坐っているうちに思いがけない記憶が浮かんだり、自分の感覚が変わったりしても、それだけで修行の達成を判定することはできないのです。珍しい体験を得たいという期待もまた、観察の対象になります。

無我を日常へ問い返す

無我という教えも、一時的に自分を忘れる感覚と同じではありません。移り変わる経験を、変わらない私や、私の所有物としてつかめるのか。その問いを、自分自身へ向けます。怒りがあることと、私は怒りそのものだと決めることは違います。うまくいかなかった経験があることと、私は失敗した人間だと定めることも違います。こうした気づきだけで悟りを得たとはいえませんが、固定した自己をつかむ癖を見直す方向は、そこにもあります。

明日の暮らしには、明日の用事が待っています。計画も判断も必要です。それらを持ちながら、経験に応じて見直せる余地を残しておく。必ず成功しなければならない、誰からも認められなければならないという思いが浮かんだとき、それを直ちに自分への命令にしない。修行の意味は、静かに坐れた時間だけでなく、その後の一つの返事、一つの振る舞いにも問われます。

いま、あなたが当然のこととして抱えている「こうでなければならない」は、どのような経験から生まれ、今日の自分の受け答えに、どのような影響を与えているでしょうか。