一枚の銅銭が仏教を分けた――第二結集
一枚の銅銭をめぐる第二結集から、戒律の文言と精神、教えを守りながら現実へ生かす難しさをたどります。
釈尊なき後、教えをどう守るか
釈尊が入滅されてから、およそ百年が過ぎたころのことです。仏教の教えは北インドの各地へ広がり、僧団も大きくなっていました。教えが遠くまで届くことは、もちろん喜ばしいことです。しかし、広がるということは、異なる土地、異なる暮らし、異なる習慣の中で、同じ教えを守るということでもあります。
釈尊がご存命であれば、迷った比丘は直接教えを請うことができました。けれども、もはやその声を聞くことはできません。口伝された法と律を唱え、記憶し、今ここで何をなすべきかを、自分たちで判断しなければならない。第二結集と呼ばれる出来事は、その困難が大きく現れた最初期の例でした。
ヴァイシャーリーの銅の盆
舞台は、ヴァイシャーリーです。布薩の日、ヴァッジ族の比丘たちは、在家の信者たちの前に銅の盆を置き、金銭の供養を受けていました。集まった金銭は、参集した比丘たちに分配されたと伝えられます。
今日の感覚で見れば、それほど重大なことには思えないかもしれません。教団が広がれば、移動にも物資にも費用がかかります。品物を直接寄進するより、金銭を渡したほうが在家信者にも便利です。暮らしの仕組みが変わったのなら、戒律の運用も少し変える必要がある。ヴァイシャーリーの比丘たちは、そのように考えていたのでしょう。
しかし、金銀を受け取らないという戒めは、ただ清貧らしく見せるための規則ではありません。金銭を持てば、何を買うかという選択が生まれます。選択があれば、こちらが欲しい、あちらは要らないという好みが生まれます。その好みは、やがて手に入れたい、失いたくないという執着へ育っていきます。
つまり、この戒めは、物を所有する行為のさらに奥にある心の動きを見据えています。執着が育ってから抑え込むのではなく、その入口で静かに断つ。戒律は外から人を縛る鎖ではなく、煩悩の働きを知り尽くしたうえで置かれた、修行のための処方なのです。
そう考えるなら、金銭の受領を認めることは、細かな規則を一つ直すだけでは済みません。病に合わせて調えられた処方そのものを、後の者が便利さを理由に書き換えてよいのか。その問いが生じます。
とはいえ、ヴァイシャーリーの比丘たちを、ただ戒を軽んじた人々と決めつけることもできません。僧団が小さく、比丘が限られた地域を歩いていた時代と、多くの町を結ぶほど教団が広がった時代とでは、暮らしの条件が違います。形を一切変えないことによって、かえって教えが人々の生活から離れてしまうのではないか。彼らにもまた、仏法を現実の中で存続させたいという理由があったはずです。
厳格に守ろうとする側にも、切実な理由がありました。便利さは、いつも大きな姿で戒を壊しに来るわけではありません。ほんの少し、今回だけ、事情があるからという顔で入ってきます。最初の譲歩は合理的に見えても、それが重なった先で、出家の暮らしと世俗の暮らしを分けていた輪郭が消えるかもしれません。両者が守ろうとしたものは異なって見えても、どちらも教団の未来だったのです。
十事と七百比丘の審議
争点は金銭だけではありませんでした。塩を角製の容器に蓄えておくこと。正午を少し過ぎても食事を続けること。いったん食事を終えたあと、別の村へ行ってもう一度食べること。まだ酔わせる性質を帯びていないとされた椰子酒を飲むこと。定めを超える大きさの坐具を使うこと。こうした十項目が、まとめて「十事」と呼ばれました。
一つ一つだけを見れば、ささやかな例外に思えます。塩を少し残しておくことが、なぜ大きな問題になるのでしょうか。けれども、例外を一つ認めたとき、次の例外をどこで止めるのかという問題が起こります。境界線を動かすことができるなら、その線を引く権限は誰にあるのか。争われていたのは十個の細則であると同時に、戒律の境界そのものでした。
この実践に異議を唱えたのが、西方から来た長老、ヤサ・カーカンダカプッタです。ヤサは、金銭の供養は戒律に反すると、在家信者たちの前ではっきり告げました。それは、現地の僧団にとって穏やかに聞き流せる言葉ではありません。ヤサは処分を受けましたが、謝罪して問題を収める道を選びませんでした。
彼は各地を訪ね、長老たちに事情を説き、協力を求めました。個人の反発で終わらせず、教団全体が法と律に照らして判断すべき問題として、正式な審議へ運んだのです。
パーリ律の伝承では、ヴァイシャーリーに七百人の比丘が集まったとされます。そのため、この集会は七百結集とも呼ばれます。離婆多、すなわちレーヴァタ長老が議事を導き、最長老のサッバカーミに対して、十事を一項ずつ問い尋ねました。これは許されるのか。どの律に照らすのか。そうして逐条に審議した結果、十事はすべて非法であると裁定されました。
ここで注目すべきなのは、単純な多数決で決めようとしなかったことです。多くの人が望んでいるから正しいのでも、声の大きな長老が命じたから正しいのでもない。判断の基準を、釈尊が遺した法と律に置こうとしました。教祖なき後の教団は、生きた誰かを新たな絶対者にするのではなく、教えそのものを権威としようとしたのです。
分裂をめぐる複数の伝承
しかし、裁定が下れば、人の心まで一つになるとは限りません。後代の伝承によっては、ヴァッジ族の比丘たちが結論を受け入れず、別に大規模な集会を開いたとも語られています。ただし、この出来事の細部は諸部派の律や後代の年代記によって異なります。勝者と敗者が明瞭に分かれた一日の事件として受け取るのではなく、複数の立場から語り直された歴史であることを、忘れてはなりません。
第二結集ののち、僧団には上座部と大衆部と呼ばれる大きな分岐が生じたと伝えられます。ただし、根本分裂の時期や直接の原因には諸説があります。第二結集の十事論争と根本分裂を同じ一日の出来事とみなすことはできず、その間隔や因果関係も確定していません。後代の諸伝承が、それぞれの立場から分裂の由来を説明していると見る必要があります。
上座部という名は「長老たちの一派」を、大衆部という名は「大きな僧衆」を意味します。ただし、なぜこの名で呼ばれたのか、分裂時に何が争われたのかは、伝承によって異なります。そこには、教えと戒律を誰が、どのように伝え解釈するのかという問題があったと考えられます。
阿羅漢と仏陀をめぐる後代の問い
分裂後の諸部派では、さらに深い問いも論じられるようになりました。修行の完成とは何か。阿羅漢として煩悩を滅し、解脱を成就することを究極と見るのか。それとも、仏陀の境地を阿羅漢とは異なるものとして、より高く位置づけるのか。
また、仏陀とはどのような存在なのか。歴史の中に生まれ、修行して覚りを開いた一人の覚者として仰ぐのか。その働きを、世俗を超えたものとして理解するのか。こうした後代の教義上の違いは、やがて修行の目標や、礼拝のあり方にも影響を及ぼしていきます。
後世には、大天五事と呼ばれる議論も伝えられました。阿羅漢にも、夢中の漏失や、なお知らないこと、疑い、他者から教えられることがあり得るのか。発声を契機として道が生じることがあるのか。そのような五つの命題です。ただし、この五事を大天という人物に帰すこと自体を含め、年代と帰属には異説があります。これを第二結集や根本分裂の直接原因と断定することはできません。
それでも、この議論が示した問いは重要です。阿羅漢の完全性をどのように理解するのか。修行者は何を最高の目標とするのでしょうか。後の大乗仏教は菩薩道を前面に掲げますが、それを大天五事から直接生じたものとみなすことはできません。また、ここで上座部を自分の解脱だけを求める教え、大衆部を他者だけを思う教えと分けるのも、あまりに単純です。後代の諸部派には、仏陀と阿羅漢の境地をどう捉えるかについて、異なる見解が育っていきました。
対機説法と言葉の限界
なぜ、同じ釈尊の教えから、このような違いが生まれたのでしょうか。
釈尊は、目の前の相手に応じて法を説かれました。悩みも、理解の深さも、執着の形も異なる人々に、同じ言葉だけを繰り返したのではありません。同じ真理を、ある人にはこの角度から、別の人には違う角度から示しました。対機説法とは、生きた人間を覚りへ導く、まことに優れた方法です。
けれども、後世の人々には難題が残ります。異なる場で説かれた多様な言葉は、どのように結びつくのか。どの教えが特定の相手への方便で、どの教えがあらゆる場合に通じる原則なのか。釈尊は多くの表現を遺されましたが、それらを一対一で結ぶ対応表まで遺されたわけではありません。
そもそも言葉は、生きた体験を完全に保存する器ではありません。覚りの体験が言葉になったとき、その場の沈黙、相手の表情、問いが生まれた事情、理解が熟すまでの時間は、こぼれ落ちていきます。後の人は、残された言葉から失われた全体を読み取ろうとします。その誠実な努力の中にさえ、解釈の分かれ道は生まれます。
自洲・法洲と現代の私たち
釈尊は「自らを洲とし、法を洲とせよ」と説かれました。日本では自灯明・法灯明として知られる教えです。これは、自分の思いつきだけを信じればよい、という意味ではありません。経典では続いて四念処が具体的な実践として示されます。自らの身と心をよく観察し、法によって確かめ、他を最終的なよりどころとせず歩むよう促す言葉です。
しかし、ここにも厳しい課題があります。法をよりどころにせよと言われても、法は人間の理解を離れて、自分で判断を告げてはくれません。伝承された戒律の文言を最も重く見るのか。多くの僧の合意を重んじるのか。長く修行した者の体験に信頼を置くのか。どれか一つを選べば、すべてが解決するわけではありません。
第二結集の核心は、十事のどちらが正しかったかという判定だけにあるのではないでしょう。戒律を定めた方がすでにおられないとき、伝承された戒律に忠実であることと、教えの精神を新しい状況に生かすことを、どう両立させるのか。その決着しない問いが、教団の前に姿を現したのです。
そして、この問いは古代の僧団だけのものではありません。私たちもまた、かつて静かな心で明晰に見抜いたことを、日々の都合によって少しずつ薄めます。今日は忙しいから。これくらいなら害はないから。皆も同じようにしているから。そう言って境界線を動かし続けるうちに、初めに何を守ろうとしていたのかさえ、見えなくなることがあります。
反対に、文字を守ることだけに固執し、戒めが何のために置かれたのかを忘れることもあります。戒律の文言と精神は、どちらか一方を捨てればよいものではありません。問うべきなのは、その解釈が貪りや執着を強めるのか、それとも、それらを離れる助けになるのかということです。
その見極めには、自分に都合のよい答えを急いで出さない忍耐が要ります。戒を緩めたい心にも執着があり、戒を守る自分を誇る心にも執着があります。規則の外側だけを見ていては、どちらも見落とします。法に照らすとは、相手の誤りを裁くことだけではなく、判断している自分の心を同じ光の下へ置くことでもあるのでしょう。
自分が忠実であるべきものは、後から付けた便利な説明でしょうか。それとも、心が清明であったとき、直接に見た真実でしょうか。第二結集の銅の盆は、今も私たちの前に置かれています。その中へ何を入れるかではなく、それを前にした自分の心に、どのような欲と理屈が動いているかを見るのです。
この亀裂は、やがて二つの大きな流れにとどまらず、十八部とも呼ばれる多くの部派へ分かれていきます。教えを守ろうとした人々は、なぜ分かれ、それぞれ何を受け継ごうとしたのか。次に始まるのは、部派仏教という、さらに複雑で豊かな時代です。